鳥羽天皇
母は大納言藤原実季の娘苡子。
1107年堀河天皇の崩御に伴い5歳で即位する。
この間白河上皇の院政が盛んで、鳥羽天皇の子が生まれると白河上皇から譲位を促され、1123年子の顕仁親王(崇徳天皇)に譲位した。
譲位後は鳥羽上皇として院政をしくことになった。
白河上皇を本院(白河離宮、白河殿とも)といい、鳥羽上皇を新院(鳥羽離宮)といった。
白河上皇が崩御した後、鳥羽上皇は、子の崇徳天皇と対立して「保元の乱」の遠因を作った。
鳥羽上皇は自分の病が重いと知ると、鳥羽院や内裏の警護のため、平氏、源氏の武士団を集めた。
なお、鳥羽院政期は「荘園公領制」の確立期といわれている。
1156年崩御。
第74代天皇 | |
天皇名 | 鳥羽天皇 |
読み方 | とばてんのう |
名・諱等 | 宗仁親王 |
読み方 | むねひとしんのう |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 1107年から1123年 |
生年 | 1103 |
没年 | 1156 |
父 | 堀河天皇 |
母 | 藤原苡子 |
兄弟 | □□□ |
配偶者 | 藤原璋子 |
皇子女 | 顕仁親王・雅仁親王ら |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 安楽寿院陵 |
所在地 | 京都市伏見区竹田内畑町 |
鳥羽天皇
(宗仁親王 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 01:55 UTC 版)
鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体: 鳥羽󠄀天皇、1103年2月24日〈康和5年1月16日〉- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉[1])は、日本の第74代天皇(在位: 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。諱は宗仁(むねひと)。
注釈
出典
- ^ 『鳥羽天皇』 - コトバンク
- ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
- ^ 佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9 P142-144
- ^ 豊永聡美「平安時代における天皇と音楽」(初出:『東京音楽大学研究紀要』25号(2004年)/改題所収:豊永「鎌倉期以前の天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P30-31)
- ^ 『兵範記』保元元年(1156年)7月11日条裏書
- ^ 天皇陵(宮内庁)
- 宗仁親王のページへのリンク