太平洋会議の一覧
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「太平洋問題調査会」の記事における「太平洋会議の一覧」の解説
「太平洋会議」と呼ばれたIPRの国際大会のスケジュールは、戦前においては「宗教、教育、文化、社会制度に関する議題」「経済、資源、産業、商業、財政に関する議題」「人種、人口、食糧に関する議題」「政治、法律、国際関係に関する議題」「太平洋問題調査会と太平洋会議に関する議題」の5つに分かれた「円卓会議」ののち「全体会議」が行われた。 第1回ホノルル会議(1925年) 6月30日から7月14日まで開催され、参加者は米国本土・ハワイ・日本・中国・ニュージーランド・朝鮮・オーストラリア・カナダ・フィリピンの9地域から139名(無所属も含む)。米国の排日移民法(1924年成立)と中国の不平等条約をテーマとした。日本からは沢柳政太郎、原田助、井深梶之助、市橋倭、斉藤惣一、鶴見祐輔、頭本元貞らが出席した。 第2回ホノルル会議(1927年) 7月15日から29日まで開催され、米・ハワイ・日・中・朝・豪・ニュージーランド・加・比に加え、新たにイギリスが正式参加し10地域となった。人口食糧問題・自然資源分布問題・日米不戦条約をテーマとしたが、実際に中心的な議題となったのは中国の不平等条約の改正問題であった。 第3回京都会議(1929年) 10月23日から11月9日まで開催され、正式参加の米・日・英・中・豪・ニュージーランド・加・比の8地域(この回以降ハワイIPRはアメリカIPRに統合)に加え、ソ連・フランス・オランダ・メキシコの4ヵ国がオブザーバーとして新たに参加し、朝鮮が正式参加からオブザーバー参加となった。新戸部稲造が議長を務めた。満州問題をテーマとしたが、満州が中国の固有領土であることを主張する中国代表と、日本政府の公式見解とほとんど変わらない主張を行う日本代表(松岡洋右が中心)との間で議論は平行線をたどった。 第4回杭州・上海会議(1931年) 10月21日から11月2日まで開催され、米・日・中・英・豪・ニュージーランド・加・比の8地域に加え、オブザーバー参加は蘭のみであった。満州事変(柳条湖事件)勃発直後の緊迫した情勢下で開かれ、日本代表の安全が保障できないという理由で会場が上海の国際共同租界内に変更された。中国経済の発達をテーマとしたが、満州での日本軍の行動に関して各国代表団が批判を繰り返し、(日本政府の立場と一線を画すことができなかった)日本代表団の孤立が露わになった。 第5回バンフ会議(1933年) 8月14日から26日まで開催され、米・日・中・英・豪・ニュージーランド・加・比に加え仏・蘭・蘭領東インド(現インドネシア)が新たに正式参加し11地域となった。テーマは「太平洋地域に於ける経済上の軋轢とその統制」。日本が国際連盟脱退の意向を表明していた状況を踏まえ、日本代表団の高木八尺・横田喜三郎は「太平洋地域安全保障条約」構想を発表したが、好意的反響は得られなかった。 第6回ヨセミテ会議(1936年) 8月15日から29日まで開催され、米・日・中・英・仏・蘭・豪・ニュージーランド・加・比・蘭印に加えソ連が新たに正式参加、12地域となった。テーマは「太平洋地域に於ける経済政策、並びに社会政策の目的と結果」で、主として米・日・中・ソ4ヵ国の比較が行われたが、中国代表の胡適から厳しい対日批判が行われるなど日本代表団の孤立はますます深まり、日本の参加は第二次世界大戦以前では最後となった。 第7回ヴァージニア・ビーチ研究集会(1939年) 11月18日から12月2日まで開催され、ヨーロッパにおける第二次世界大戦勃発の直後に行われたため、蘭・ソ連は参加せず、英・仏はオブザーバーのみの参加となった。また開催前の1938年に起こった国際事務局の「インクワイアリー」刊行問題を理由に、この回より第10回まで日本IPRは代表派遣を行わなかった。このため参加者は計36名に止まり「会議」ではなく「研究集会」と称した。テーマは「極東戦争の世界的意義」。 第8回モン・トランブラン会議(1942年) 開催地はカナダ・ケベック州。12月4日から14日まで開催された。米・中・英・仏・蘭(蘭印含む)・豪・ニュージーランド・加・比(うち枢軸国占領下の仏・蘭・比は亡命政府系の参加)に加え、新たにインド・タイ(自由タイ)が正式参加、さらに朝鮮(在米朝鮮人)も久しぶりに正式参加し計12地域から約140人が参加した(この回以降ソ連は不参加)。テーマは「太平洋及び極東に於ける連合国の戦時・戦後強力」で、全面戦争下にあったアジア・太平洋地域での連合国軍による戦時下および戦後の協力問題が主な議題となった。インド独立問題についての議論でイギリス代表が批判を浴びた。 臨時ニューヨーク会議(1944年) 対日戦の遂行や日本に対する戦後政策を巡って、「日本人の性格構造」を分析するために1944年12月16日と17日にニューヨークで開かれた臨時の太平洋会議。日本に関するアメリカ政府の専門家、日本関連の学識経験者、文化とパーソナリティーの研究者を含む精神分析学者や文化人類学者、社会学者など40人以上の研究者が出席し、講演のほか、日本人兵士が書いた日記が回覧され、日本人の戦意分析のため映画『チョコレートと兵隊』(1938年 佐藤武監督)が上演された。日本人の未成熟さ、身内とよそ者の考え方、日本人にとっての敗北の意味などが話し合われたあと、日本人の扱い方として儒教的な兄-弟の関係を用いればアメリカ側の強硬さも正当化できると提案されたが、それまでアメリカ国内において日本人を猿人間など人間以下とするプロパガンダを強烈に行なってきたため、アメリカの世論では日本人は人間以下とみなされており、今さら親しい関係となるのは難しいなどの意見が出された。 第9回ホット・スプリングス会議(1945年) 開催地はアメリカ・ヴァージニア州。1月6日から17日まで開催され、米・中・英・仏(仏印含む)・蘭(蘭印含む)・豪・ニュージーランド・加・比・朝・タイ・印の計12地域159名が参加。テーマは「太平洋に於ける安全保障」で、大戦終結を前にして天皇制など戦後の日本の行方に関する重要問題が議論され、また植民地独立問題をめぐり、戦後の独立を支持する米・中・印と英・仏・蘭など植民地宗主国が激しく対立した。 第10回ストラトフォード会議(1947年) 開催地はイギリス。9月5日から20日まで開催され、米・中・英・仏・加に加え独立したインドネシアが新たに正式参加し計6ヵ国70名となった。オブザーバー参加となった蘭・印・タイ・朝鮮に加え、新たなオブザーバーとしてビルマが参加し13名となった。日本は会議に向け報告書を提出したが復帰・正式参加には至らなかった。 第11回ラクノー会議(1950年) 10月3日から15日まで開催され、正式参加は米・英・仏・加・印・比・ニュージーランドに加えこの回より日本が復帰、またパキスタンが新規に参加して計9ヵ国81名となったのに対し、中国は支部組織の解散によりこの回以降脱退した。またオブザーバーは豪・蘭・ビルマ・インドネシアに加えセイロン・マラヤ・ベトナムが新たに参加し計7ヵ国13名となった。テーマは「極東のナショナリズムとその国際的影響」。米ソ対立とアジアのナショナリズムとの関係や中国革命の評価、日本の講和のあり方などが議論の中心となり、朝鮮戦争に対する主催国インドの中立的立場と次第に「冷戦的思考」に傾きつつあるアメリカとの対立が露わになった。 第12回京都会議(1954年) 9月27日から10月8日まで開催。 第13回ラホール会議(1957年) 2月3日から2月12日まで開催。最後の大会となった。
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