太平洋会議の一覧とは? わかりやすく解説

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太平洋会議の一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 10:22 UTC 版)

太平洋問題調査会」の記事における「太平洋会議の一覧」の解説

太平洋会議」と呼ばれたIPR国際大会スケジュールは、戦前においては宗教教育、文化社会制度に関する議題」「経済資源産業商業財政に関する議題」「人種人口食糧に関する議題」「政治法律国際関係に関する議題」「太平洋問題調査会太平洋会議に関する議題」の5つ分かれた円卓会議」ののち「全体会議が行われた。 第1回ホノルル会議1925年6月30日から7月14日まで開催され参加者米国本土ハワイ日本・中国ニュージーランド朝鮮・オーストラリア・カナダ・フィリピンの9地域から139名(無所属も含む)。米国排日移民法1924年成立)と中国不平等条約テーマとした。日本からは沢柳政太郎原田助井深梶之助市橋倭斉藤惣一鶴見祐輔頭本元貞らが出席した第2回ホノルル会議1927年7月15日から29日まで開催され、米・ハワイ日・中・朝・豪・ニュージーランド・加・比に加え新たにイギリスが正式参加し10地域となった人口食糧問題自然資源分布問題日米不戦条約テーマとしたが、実際に中心的な議題となったのは中国不平等条約の改正問題であった第3回京都会議1929年10月23日から11月9日まで開催され、正式参加米・日・英・中・豪・ニュージーランド・加・比の8地域(この回以降ハワイIPRアメリカIPR統合)に加えソ連・フランス・オランダ・メキシコの4ヵ国がオブザーバーとして新たに参加し朝鮮が正式参加からオブザーバー参加となった新戸部稲造が議長務めた満州問題テーマとしたが、満州中国固有領土であることを主張する中国代表と、日本政府の公式見解とほとんど変わらない主張を行う日本代表松岡洋右中心)との間で議論平行線たどった第4回杭州・上海会議1931年10月21日から11月2日まで開催され米・日・中・英・豪・ニュージーランド・加・比の8地域加えオブザーバー参加のみであった満州事変柳条湖事件勃発直後緊迫した情勢下で開かれ日本代表の安全が保障できないという理由会場上海国際共同租界内に変更された。中国経済発達テーマとしたが、満州での日本軍の行動に関して各国代表団が批判繰り返し、(日本政府立場一線を画すことができなかった)日本代表団の孤立露わになった。 第5回バンフ会議1933年8月14日から26日まで開催され米・日・中・英・豪・ニュージーランド・加・比に加え仏・蘭・蘭東インド(現インドネシア)が新たに正式参加し11地域となったテーマは「太平洋地域に於ける経済上の軋轢とその統制」。日本国際連盟脱退意向表明していた状況踏まえ日本代表団の高木八尺横田喜三郎は「太平洋地域安全保障条約構想発表したが、好意的反響得られなかった。 第6回ヨセミテ会議1936年8月15日から29日まで開催され米・日・中・英・仏・豪・ニュージーランド・加・比・蘭印加えソ連新たに正式参加12地域となったテーマは「太平洋地域に於ける経済政策並びに社会政策目的結果」で、主として米・日・中・ソ4ヵ国の比較が行われたが、中国代表胡適から厳し対日批判が行われるなど日本代表団の孤立はますます深まり日本の参加第二次世界大戦以前では最後となった第7回ヴァージニア・ビーチ研究集会1939年11月18日から12月2日まで開催されヨーロッパにおける第二次世界大戦勃発直後行われたため、ソ連参加せず英・仏オブザーバーのみの参加となった。また開催前1938年起こった国際事務局の「インクワイアリー刊行問題理由に、この回より第10回まで日本IPRは代表派遣を行わなかった。このため参加者は計36名に止まり「会議」ではなく研究集会」と称したテーマは「極東戦争世界的意義」。 第8回モン・トランブラン会議1942年開催地はカナダ・ケベック州12月4日から14日まで開催された。米・中英・仏蘭印含む)・豪・ニュージーランド・加・比(うち枢軸国占領下の仏・・比は亡命政府系の参加)に加え新たにインド・タイ(自由タイ)が正式参加、さらに朝鮮在米朝鮮人)も久しぶりに正式参加し12地域から約140人が参加した(この回以降ソ連不参加)。テーマは「太平洋及び極東に於ける連合国戦時・戦後強力」で、全面戦争にあったアジア・太平洋地域での連合国軍による戦時下および戦後協力問題主な議題となったインド独立問題についての議論イギリス代表批判浴びた臨時ニューヨーク会議1944年対日戦遂行日本対す戦後政策巡って、「日本人の性構造」を分析するために1944年12月16日17日ニューヨークで開かれた臨時太平洋会議日本に関するアメリカ政府専門家日本関連学識経験者文化パーソナリティー研究者を含む精神分析学者文化人類学者社会学者など40人以上の研究者出席し講演のほか、日本人兵士書いた日記回覧され日本人戦意分析のため映画チョコレートと兵隊』(1938年 佐藤武監督)が上演された。日本人未成熟さ、身内よそ者考え方日本人にとって敗北の意味などが話し合われたあと、日本人扱い方として儒教的兄-弟の関係を用いればアメリカ側強硬さも正当化できる提案されたが、それまでアメリカ国内において日本人猿人間など人間以下とするプロパガンダ強烈に行なってきたため、アメリカ世論では日本人人間以下とみなされており、今さら親しい関係となるのは難しいなどの意見出された。 第9回ホット・スプリングス会議1945年開催地はアメリカ・ヴァージニア州。1月6日から17日まで開催され米・中英・仏仏印含む)・蘭印含む)・豪・ニュージーランド・加・比・朝・タイ・印の計12地域159名が参加テーマは「太平洋に於ける安全保障」で、大戦終結前にして天皇制など戦後の日本行方に関する重要問題議論され、また植民地独立問題をめぐり、戦後独立支持する米・中・印と英・仏など植民地宗主国激しく対立した第10回ストラトフォード会議1947年開催地はイギリス9月5日から20日まで開催され米・中英・仏・加に加え独立したインドネシア新たに正式参加し計6ヵ国70となったオブザーバー参加となった蘭・印タイ朝鮮加え新たなオブザーバーとしてビルマ参加し13となった日本会議に向け報告書提出した復帰・正式参加には至らなかった。 第11回ラクノー会議1950年10月3日から15日まで開催され、正式参加米・英・仏・加・印・比・ニュージーランドに加えこの回より日本復帰、またパキスタン新規に参加して計9ヵ国81となったのに対し中国支部組織解散によりこの回以降脱退した。またオブザーバーは豪・・ビルマ・インドネシアに加えセイロン・マラヤ・ベトナムが新たに参加し計7ヵ国13となったテーマは「極東ナショナリズムとその国際的影響」。米ソ対立アジアナショナリズムとの関係や中国革命評価日本講和あり方などが議論中心となり、朝鮮戦争対す主催インド中立的立場次第に「冷戦思考」に傾きつつあるアメリカとの対立露わになった。 第12回京都会議1954年9月27日から10月8日まで開催第13回ラホール会議1957年2月3日から2月12日まで開催最後大会となった

※この「太平洋会議の一覧」の解説は、「太平洋問題調査会」の解説の一部です。
「太平洋会議の一覧」を含む「太平洋問題調査会」の記事については、「太平洋問題調査会」の概要を参照ください。

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