合同司令部自決
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サイパン西岸を進撃していた第2海兵師団第2海兵連隊は、6月25日にサイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始していた。ガラパンは日本の委任統治領となって経済発展を続けたマリアナの中心であって、各種公共施設や軍施設に加えて、学校、病院、デパート、映画館、商店、飲食店、カフェなどに加えて遊郭なども建ち並ぶ近代的な都市となっていたが、上陸前の空襲や艦砲射撃により、市街は大火災となって大半が焼失していた。第2海兵連隊の進撃に対して、日本軍守備隊はガラパンにあった唯一のラジオ局の周辺に街頭に鉄条網を張って抵抗していた。日本兵はラジオ局の南側にあった石切場の洞窟に立て籠もって、狙撃によって優勢なアメリカ軍に対抗したが、アメリカ軍は大量のTNT爆薬で洞窟ごと日本兵を吹き飛ばした。このようにアメリカ軍は市街地に立て籠もる日本軍を建物ごと撃破したため、ガラパン市街のアメリカ軍占領地域は全くの瓦礫の山となっており、わずかに残っていたのは2軒の真っ赤に塗られた木造の建物だった。その建物の中には色彩豊かな女性用の着物や帯に加えて、性病予防薬や香水も大量に散乱していたことから、海兵隊員はその建物を「ゲイシャハウス」と名付けた。 第2海兵師団によるガラパンへの本格的な攻撃は7月1日からとなり、タポチョ山を攻略した部隊も加わった。海兵隊にとってガラパンの戦いは第二次世界大戦で初めての市街戦となったが、この頃には激しい砲爆撃によってまともに建っている建物は殆どなく、また僅かに残った建物もアメリカ軍が立て籠もる日本兵ごと爆破したため、「建物ひとつひとつを奪い合う」といったような市街戦の定石とは全く異なる戦いとなった。日本海軍を中心としたガラパン守備隊は、タポチョ山から撤退してきた陸軍部隊も加えて、ガラパンの起伏が多い地形を活用したり、廃墟に隠れての狙撃や肉薄攻撃、白兵突撃を駆使して3日に渡って飲まず食わずで勇戦・敢闘するも、周囲の日本軍各部隊が撤退しており、ガラパン守備隊は退路を断たれつつあったので、やむなく守備隊は、7月4日にはわずかばかりの狙撃兵を残して撤退した。残された狙撃兵もまもなく海兵隊員に掃討され、かつては「南洋の東京」などとも呼ばれて栄華を誇ったガラパンは、90cmから120cm程度の高さの瓦礫の山と化してアメリカ軍の手に落ちた。 陸海軍合同司令部は、6月27日に今後の作戦指導を検討した結果、「タナバク、221高地、タロホホの線を最後の抵抗線として戦闘を続行する」と決定、各部隊に新防衛線への移動開始を7月2日とすることを通知した。陸海軍合同司令部もタナバクから1,500m離れた位置にあった通称「地獄谷」に後退することとし、「地獄谷」にあった自然の洞穴を最後の司令部とした。斎藤は「地獄谷」に撤退する前に「在島守備隊は最後まで、わが空軍または増援部隊の来着を信じている。サイパン北端のパナデル飛行場の完成を急いでおりサイパン島防衛は7月10日まで可能である」と切実な航空支援要請を大本営と第31軍に打電しているが、実際に日本軍はマッピ岬に建設中であったパナデル飛行場を最後まで死に物狂いで工事しているのをアメリカ軍が確認している。 6月18日よりナフタン半島で敢闘してきた日本軍の独立歩兵第317大隊らの生存者約500名は、アメリカ軍の猛攻で進退窮まった6月26日夜半に大隊長の佐々木指揮の下でイズリー飛行場を混乱させ、味方主力に合流すべく突撃を敢行した。佐々木隊は「七生報国」を合言葉に一心不乱に飛行場に向けて突撃を行った。佐々木隊には十分な装備なく、飢え乾いていたが、一部の将兵はアメリカ軍から鹵獲したM1ガーランドで武装していた。佐々木隊はイズリー飛行場への侵入に成功して、24人のアメリカ兵を死傷させると、さらに滑走路へ侵入した20人は「P-47」の操縦席に火炎瓶と手榴弾を投げ込んで爆破炎上させ、他の3機の機体やタイヤを銃剣で突いてズタズタにした。パイロットや整備兵も銃を取って戦い飛行場は大混戦となり、ある工兵隊の将校は大混乱の飛行場にジープで乗り付けると、射撃していた日本兵をそのままジープで轢き殺した。飛行場を混乱させるという目的を達した佐々木は日本軍主力との合流を目指したが、既に主力は北方に撤退しており、部隊の一部は第14海兵砲兵連隊の陣地に突入し、激戦の末、海兵隊員33人と日本兵143人が戦死した。また別の部隊は第104野砲大隊陣地にも突入し20名のアメリカ軍砲兵が戦死した。 6月27日の朝には残った日本兵は掃討されて、ナフタン半島はアメリカ軍に確保された。6月28日に半島の南端に達したアメリカ軍は、海岸砲として設置されていたイギリス軍から鹵獲した6インチ砲4門、50口径三年式14cm砲3門とレーダーを鹵獲した。それでも、わずかに生き残った日本兵はイズリー飛行場付近に潜み、出撃するため航空機に乗り込もうとするパイロットを狙撃したため、その後も飛行場付近の探索は続けられた。ナフタン半島での戦いはホーランド・スミスが日本軍の戦力を読み違えていたこともあり、第105歩兵連隊の戦いぶりに「1000人のアメリカ人が一握りのジャップに翻弄されている」と不満を抱き『スミスV Sスミス事件』の一因ともなっている。 日本軍守備隊の崩壊は深刻な水準となっており、7月2日を待たずに後方に退却する部隊が続出したが、アメリカ軍の進撃は早く、新防衛線にたどり着く事ができず壊滅する部隊も多かった。歩兵第136連隊主力も撤退途中にアメリカ軍に包囲され、7月4日に連隊長小川ら司令部要員はアメリカ軍第165連隊の戦闘指揮所と不意に遭遇し、日米の連隊司令部同士の銃撃戦となり、日本軍第136連隊の小川を含む司令部要員27名が全員戦死した。アメリカ軍の砲撃も激化しており、地獄谷の合同司令部付近にも着弾し第31軍高級参謀伊藤誠逸大佐が戦死、師団長の斎藤も負傷した。 サイパンの東側を進んでいた第4海兵師団はカグマン半島を攻略後北上を続けていたが、サイパンは北上するにつれて進撃路が狭くなるため、ホーランド・スミスは並んで進撃していた3個師団のうち第2海兵師団を後方に下げて、西側に第27歩兵師団、東側に第4海兵師団を配置し、サイパン北端のマッピ岬に向けて進撃させた。 アメリカ軍の攻勢が強まる中で新防衛線もアメリカ軍に突破されるのは時間の問題となり、合同司令部は今後の方針について協議し、さらに島の北端まで撤退するか、全軍挙げて玉砕攻勢を行うかの二者択一に迫られたが、7月7日をもって全軍で玉砕突撃し全員の死を以って太平洋の防波堤となる事に決した。 7月5日に、第135連隊と第118連隊の軍旗を奉焼すると、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲と第43師団長斎藤は全将兵に対して 「明後7日、米鬼を索めて攻撃に前進し一人よく十人を斃し以って全員玉砕せんとす」「予は諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ諸士とともに玉砕す」 と総攻撃の命令を行った。そして7月6日、南雲は全軍に 「サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし」 との訓示を行った。第43師団参謀平櫛孝中佐によれば、その後の午前10時に、南雲、斎藤、第31軍参謀長井桁の3人の将官は肌着を着替え、入念に掃き清められた台座の上に座って、自決の儀式を行った。3人の後ろには拳銃を構えた高級副官が立ち、南雲の高級副官が「よろしゅうございましょうか」と尋ねると南雲が「どうぞ」と答え、それを合図に3人の将官は日本の古式に乗っ取って持っていた軍刀を腹に突き立てると、高級副官らは持っていた拳銃で介錯を行った。 しかし、南雲らの最後には異説もある。南雲に最後まで付き添った従兵石川倉太郎によれば、海軍の南雲と陸軍の斎藤と井桁は、南雲の訓示の後には別行動を取っており、負傷により突撃に同行できなかった斎藤と井桁は7月6日の夜に自決したが、南雲は翌7月7日の午前3時に海軍部隊の先頭に立って突撃を指揮した。南雲たちは海岸線を3km進んだタナバク港付近まで達したが、南雲が機銃弾を受けて重症を負ってしまった。そこで、石川ともう1人の水兵が南雲を洞窟に担ぎ込んだが、午前4時30分ごろに最期を覚悟した南雲は日本の方を向いて「天皇陛下万歳」と叫んで、持っていた拳銃を頭に撃ち込んで自決したという。しかし、この証言に対しては同じ海軍から疑問がなげかけられており、ある海軍上等兵曹(氏名不詳)によれば、南雲は総攻撃に同行することはなく、海軍部隊の出撃を見送った翌7月7日の午前10時30分に、中部太平洋方面艦隊参謀長兼第14航空艦隊参謀長矢野英雄少将と自決したという。他にも、南雲が訓示を終えた後、陸海軍の司令官や参謀たちは最後の盃を交わして別れ、南雲ら海軍の司令官や参謀らはその後に自決したが、斎藤は翌7月7日に最後の総攻撃に出撃する将兵を見送った後に自決したという証言もある。また、志願で従軍看護婦となったサイパン島日本人住民菅野静子によれば、斎藤の負傷は左腕が根本から砕かれているような重篤なもので、菅野は自ら輸血を申し出て手術が行われた。その後の斎藤は衰弱が著しく、野戦病院壕の近くの地下壕で寝たきりであったという。
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