合併と独占と規制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「合併と独占と規制」の解説
19世紀後半のアメリカの工業が急速に成長した金ぴか時代には、鉄道網のさらなる成長が続いた。輸送技術の進歩も続き、鉄道の輸送コストは低下していった。鉄道が重複して敷かれた地域では競争により運賃の低下が進み、1870年代には大量のかさばる貨物であっても並行する運河よりも運賃が安くなっていった。古い運河は設備が老朽化しており輸送の障害となっていたことや、鉄道が積極的に運河との運賃競争をしかけたこと、陸上交通で独占状態を形成していたことを利用して運河と連絡する貨物の引き受けを拒否するといった策により、貨物輸送の鉄道への転移が進んだ。これはエリー運河を擁して有利な地位に立っていたニューヨークに対して、ボストンやフィラデルフィア、ボルチモアといった都市が息を吹き返すことにもつながった。アメリカの鉄道網は多くの鉄道会社で形成されていたが、この時代には制度の改善が進んで、異なる鉄道会社の接続地点でいちいち貨物の積み替えをせずに貨車を直通させる「共同急行貨物列車」の制度が1866年に作られ、貨物輸送の運賃は安くなり速度は向上し、目的地への到着時刻の明示もできるようになった。1865年に100億トンであった貨物輸送量は、1890年に790億トン、1916年に3660億トンと激増し、運賃の低下にもかかわらず輸送量の急増によって鉄道会社の収益を向上させた。旅客運賃は貨物運賃ほど下がらなかったが、輸送量の増大も貨物ほどではなく、鉄道会社の収益に占める旅客の割合は低下し続けて行った。 この頃、鉄道会社の合併などにより鉄道網の統合も進んでいた。1875年にはシカゴと東部大都市を結ぶ鉄道は5大幹線に集約された。これは激しい競争を招いて鉄道会社の収支を悪化させた。そこで鉄道各社はカルテルを結んで、それ以上の運賃競争を回避する策を採るようになっていった。競争がない場所では大胆に運賃を値上げして利益を上げ、競争のある場所だけ運賃を下げたり、カルテルを結んで一定の運賃で貨物を分け合ったりといった対応も広く見られた。一方泥棒男爵たちの活動した時代でもあり、鉄道業界でも利益を追求して株を買い占め会社を乗っ取り、詐欺的な行為で利益を図ったり政治家に賄賂をばら撒いたりといった世間を瞠目させるような行為を通じて独占企業を形成していった鉄道経営者が現れた。 コーネリアス・ヴァンダービルトは、オールバニからニューヨークへ至る鉄道であるニューヨーク・アンド・ハーレム鉄道(英語版)を所有していた。ヴァンダービルトは、この鉄道に接続することでニューヨークへ乗り入れていたニューヨーク・セントラル鉄道の買収を望んだが、ニューヨーク・セントラル鉄道側の経営陣はこれを拒否した。ニューヨーク・セントラル鉄道からの旅客と貨物は、オールバニでニューヨーク・アンド・ハーレム鉄道へ連絡していたが、ヴァンダービルトは故意にこの接続を拒否して、旅客は厳寒期に橋を歩いて渡って乗り継がなければならなくなった。ニューヨーク・セントラル鉄道はこの件を訴訟に持ち込んだが、ヴァンダービルトは古い法律の条文を持ち出してこの訴訟に勝利し、ニューヨーク・セントラル鉄道の株価が暴落したところを狙って株式を買い占め、乗っ取りに成功した。 これに続いてヴァンダービルトは、ニューヨーク・セントラル鉄道のライバルとなるエリー鉄道の買収を試みた。しかしエリー鉄道の経営陣はこれに気づき、ジェイ・グールドなどと組んで対抗した。ヴァンダービルトはエリー鉄道の株式を市場で買い占めたが、グールドらは違法に株式の増刷を繰り返し、ヴァンダービルトがいくら株を買っても買い占めを完了できない状態となった。この件も訴訟に持ち込まれたが、グールドらは議員や法曹関係者にまで賄賂をばら撒くことで逃げ切りを図り、結局ヴァンダービルトが買い占めに使った金額の一部を返却することで和解した。これにより、エリー鉄道は独立を保つことに成功した。 ヴァンダービルトやグールドなどの鉄道経営者は全盛を誇り、自社の鉄道路線を豪華なプライベートカーに乗って移動した。グールドは、自分にぴったりの牛乳を出すという乳牛を、専用の荷物車に載せて連れて旅行したほどであった。ヴァンダービルトの個人資産はこの時代最大とされる7500万ドルに達していたとされる。この資産はニューヨーク・セントラル鉄道と共に息子のウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトへと受け継がれた。 こうした鉄道会社間の手段を選ばない激しい競争は社会的に問題になるとともに、1893年恐慌のような機会に際しては鉄道会社に破滅的な結末をもたらすことになった。このため鉄道会社間の利害調整を図る動きが見られるようになり、ジョン・モルガンら金融資本によって鉄道会社への資本参加、役員の派遣、協定の締結などを通じて鉄道業の再編成が進められていった。鉄道会社自体の合併(コンソリデーション)も進み、1900年にはアメリカの主要な鉄道網は10大鉄道にほぼ集約された。北東部に路線網を持つニューヨーク・セントラル鉄道、ペンシルバニア鉄道、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道、ワシントン以南の南部に路線を持つサザン鉄道、シカゴからニューオーリンズまでの南北に路線を持つイリノイ・セントラル鉄道、そして大陸横断鉄道となるノーザン・パシフィック鉄道、グレート・ノーザン鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道、サザン・パシフィック鉄道の10社である。これ以外の会社は地方の支線などを受け持ち、大鉄道へと連絡することで輸送を行っていた。これらの鉄道の複数を所有する人物や企業グループもあり、7つの「鉄道帝国」がアメリカの鉄道網のおよそ半分を掌握していた。この鉄道網の形態は、おおむね1950年代まで維持された。 大きな鉄道会社と、この時代に発展し始めた大産業が癒着する事件を起こすこともあった。ペンシルベニア州では1859年に石油が発見され、それ以降急速に石油の生産と使用が広まっていったが、過剰生産による値崩れと使用量の増大による値上がりの振れが激しく、業績の不安定な産業となっていた。スタンダード・オイルを率いるジョン・ロックフェラーは、輸送方法の改善や潤滑油の製造技術の発明、業務の合理的な管理などにより利点を得て会社を成長させつつあったが、こうした産業の不安定性に対しては、会社を合併し独占を図って対処する他は無いと考えていた。鉄道への大きな出荷量を背景にロックフェラーは鉄道会社に巨額のリベートを強要するようになり、やがてこの地域の3大鉄道会社であるエリー鉄道、ペンシルバニア鉄道、ニューヨーク・セントラル鉄道と、スタンダード・オイルなど一部の石油会社が協定を結び、石油の輸送運賃を地域により差別的に値上げした上で、サウス・インプルーブメント・カンパニー(英語版)を通じてこの運賃上昇による利益を、他社の輸送した石油の分についても含めてスタンダード・オイルなどに配分することになった。この件は社会に露見して激しい非難を浴び、やがて協定の撤回を余儀なくされることになった。石油産業に限らず、大手企業が鉄道会社と結びついてその産業分野における競争に決定的影響をもたらす事例は広く見られ、中小企業や一般大衆、新規参入業者を差別して苦しめていた。こうした行為は広く世間の反感を買うことになった。 この時代、工業の急速な成長もあって、農業は相対的に利益を出せない産業となり始めていた。さらに移民が続々と到着して新しい農地が開かれ続けていたので、農産物の生産は増大し、価格は下落していた。農民は生活に苦しみ、輸送を独占していた鉄道が高い運賃をむさぼっていると不満を訴えるようになった。農民は団結して政治家に圧力を加え、鉄道の運賃への規制を求めるようになっていった。それまで鉄道の運賃にはほとんど規制がなく、純粋に他の輸送手段との競争でのみ決まっていたが、事実上輸送を独占するようになっていた鉄道の運賃は高止まりしていた。大都市と大都市を結ぶ長距離路線に対しては、複数の鉄道会社の競争があったので運賃は妥当な価格に下がっていったが、郊外の農地と近くの大都市を結ぶ鉄道は事実上1本しかなく競争が生じないため運賃は下がらず、結果として短距離よりも長距離の運賃が安いという逆転現象が生じていた。鉄道会社にとっては、農民が払える限りの高い運賃が妥当であったのである。主に中西部の農民が団結して結成した圧力団体 (The National Grange of the Order of Patrons of Husbandry) が起こしたグレンジャー運動により、まずこれらの州において運賃の規制や長距離と短距離での差別を禁じる立法が行われた。しかし鉄道会社はこの問題を法廷に持ち込み、州境を越えて営業する鉄道に州法による規制は及ばないとする判決が下された。1886年時点で州境を越える輸送が全輸送量のほぼ4分の3になっていたことから州法による規制は限定的なものとなり、この問題は連邦政府に持ち込まれた。 ついに合衆国議会は1887年に州際通商委員会法を制定し、これに基づいて設立された州際通商委員会に鉄道を監督する権限を与えた。この法律では運賃を合理的に定めることを要求し、地域や荷主による差別の禁止や運賃の公表などを定めていた。鉄道側は当初はこれに従っていたが、1890年代から訴訟を通じて抵抗するようになり、1897年には実質的に法律を骨抜きにすることに成功した。しかし1890年代末に鉄道会社が資本的に統合されて、アメリカ全土の鉄道網の主要な部分が一握りの大金融資本の手に握られるようになると、それまで運賃を抑制してきた競争がなくなり、運賃は値上げに転じた。これに対して荷主からは強い反発が起こり、規制の強化を求める声が強まっていった。鉄道会社が強引な広報活動を繰り広げたことがさらに世論を硬化させ、ついに鉄道会社のロビー活動を押し切って1906年にヘプバーン法(英語版)が成立することになった。合衆国最高裁判所も州際通商委員会が鉄道の運賃を規制する権限があることを認め、鉄道の運賃は政府の監督を受ける時代となった。政府関係者や大口荷主、新聞記者などに無料乗車証を配る慣行もこの法律で禁止された。また鉄道に課される税金も増やされ、1900年から1915年までの間に鉄道の収入は2倍になったが、納める税金は3倍に増加した。1910年にはマン=エルキンズ法(英語版)により州際通商委員会の規制権限はさらに強化された。こうした規制や課税は鉄道の経営に大きな打撃を与えることになった。一方で大口荷主からのリベートの要求に悩んだ鉄道側の働きかけにより1903年にリベートを禁ずるエルキンズ法(英語版)が制定されており、州際通商委員会の活動は必ずしも鉄道にとって規制となるだけではなく、保護となる側面も持ち合わせていた。 しかし、輸送における独占体制をほぼ確立した鉄道は、この時期高い収益を謳歌した。それまで高い収益を上げていた東部では新線の建設が一段落して停滞する傾向が見られたが、代わって西部で引き続き新線の建設が行われ、収益性が向上していった。
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