合併と旧町村
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守谷市の前身である守谷町は、1955年(昭和30年)3月1日に北相馬郡西部1町3村が合併したことにより誕生した。合併時の人口は12,001人。 合併は1953年(昭和28年)9月1日に交付され、同年10月1日から施行された町村合併促進法に基づき懇談会・座談会等を経て審議されたものであったが、当初予定では(旧)守谷町を中心として、大井沢村、大野村、高野村(以上、現・守谷市)、小絹村(現・つくばみらい市)、高井村(同地→現・守谷市・それ以外→現・取手市)・稲戸井村(現・取手市)で合併を行う予定であった。この場合の予定人口は19,612人、世帯数3,432戸、面積58.218km2だった。1954年(昭和29年)5月7日には1町6ヶ村による代表者会議を開催し、同月26日には関係町村を含めた各町村10名ずつの代表者による合計70名で構成された「町村合併促進協議会」が発足。総務部、財務部、教育民生部、産業経済部、土木部の5つの専門部を設け、守谷町長を会長・他6ヶ村の村長を副会長、各部代表者の互選による代表者を部長として合併促進が進められたが、小絹、高井、稲戸井の3村が1町6ヶ村の合併に慎重な態度を取った。そのため、組合立中学校等を共同経営し、守谷町市場や法務局守谷出張所等の共同利用、同管轄である守谷町、大井沢村、大野村、高野村での合併を進めることとなった。その後も小絹、高井、稲戸井の3村に合併の促進を促したが、意見が一致せず、同年8月6日に新町建設計画の骨格である協定事項25項目を決定した。また、同月29日には新町名を「守谷町」に決定。同年11月12日に議会で合併決議が行われ、同年12月13日に県知事に申請。翌1955年(昭和30年)1月13日付で認可された。これに先立つ1954年(昭和29年)12月2日には、1町3村合併に先立ち、高井村大字同地(人口187人、28戸宅地33,517.354m2(10,319坪)、耕地469,091.14m2(47町3反))が守谷町に編入されることが決定。翌1955年(昭和30年)2月15日に編入された。その翌月3月1日に守谷町、大井沢村、大野村、高野村で合併が行われ、現在の守谷市域が確定した。 (旧)守谷町 現在の赤法花、小山、中央、ひがし野、本町、松並、松並青葉、みずき野、百合ケ丘の全域及び松ケ丘、けやき台の一部、同地(1955年2月15日 - 3月1日まで)に相当する。町の中央は海抜20mの台地で、その周辺が谷津田となっていた。常総鉄道(現:関東鉄道常総線)が南北に通り、守谷駅から銚子街道沿いを南に2,000mほど商店街を形成。町内にある守谷駅は常総鉄道内で2位の乗降客数であった。 明治以前より守谷町とされていた区域は、現在の中央、ひがし野、松並、松並青葉、百合ケ丘の全域と本町の大部分であり、1881年(明治14年)に辰新田村、1883年(明治16年)に西奥山新田を編入(現在の本町字辰新田、本町字奥山新田で、これらを含む1889年以前の旧守谷町が後の大字守谷である)。1889年(明治22年)に守谷町・小山村・赤法花村が合併し、(旧)守谷町が誕生、旧町村はそれぞれ大字守谷、大字小山、大字赤法花となった。大井沢村、高野村、大野村との合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧守谷町の人口は4,817人、面積は8.55km2である。翌2月15日には高井村大字同地を編入し、3月1日の3町1村合併まで同地は(旧)守谷町の大字となっていた。合併直前の町役場所在地は守谷町大字守谷甲19番地1。 以下は、1889年(明治22年)から1955年(昭和30年)までの旧・守谷町の町長である。 代氏名就任年退任年備考初 平尾譲吉 1899年 1906年2月12日 2 原田時次郎 1906年2月13日 1907年10月25日 3 荒川増郎 1907年10月26日 1909年4月27日 4 野澤章夫 1909年4月28日 1910年6月7日 5 藤平清次 1910年6月8日 1912年3月18日 6 上床重幸 1912年12月7日 1921年3月8日 1917年12月6日を挟んで2期連続 7 長谷川亀之祐 1921年4月21日 1927年3月6日 1925年4月20日を挟んで2期連続 8 古谷茂三郎 1925年8月27日 1930年8月26日 9 平尾栄作 1930年8月31日 1934年8月30日 10 古谷茂三郎 1934年9月11日 1938年9月10日 11 田中偉三郎 1938年9月11日 1940年1月24日 12 吉田亀次郎 1940年4月28日 1946年11月25日 1944年2月15日を挟んで2期連続 13 奈幡建三 1947年4月25日 1952年5月27日 1951年4月4日を挟んで2期連続 14 片山亀之助 1952年6月28日 1954年3月11日 15 吉田亀次郎 1954年4月23日 1955年2月29日 大井沢村 現在の板戸井、大木、大山新田、久保ケ丘、御所ケ丘、立沢、松前台、薬師台及び、緑の一部に相当する。大字板戸井、大字大木、大字大山新田、大字立沢の4大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧大井沢村の人口は2,696人、面積は11.25km2だった。 「大井沢村」を参照 高野村 現在の乙子、高野、鈴塚、美園及びけやき台、松ケ丘の一部に相当する。大字乙子、大字高野、大字鈴塚の3大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧高野村の人口は1,724人、面積は6.29km2だった。 「高野村 (茨城県)」を参照 大野村 現在の大柏、野木崎、及び松ケ丘、緑の一部に相当する。大字大柏と大字野木崎の2大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧大野村の人口は2,577人、面積は8.22km2だった。 「大野村 (茨城県北相馬郡)」を参照
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