合併と旧町村とは? わかりやすく解説

合併と旧町村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 14:06 UTC 版)

守谷市」の記事における「合併と旧町村」の解説

守谷市前身である守谷町は、1955年昭和30年3月1日北相馬郡西部1町3合併したことにより誕生した合併時の人口は12,001人。 合併1953年昭和28年9月1日交付され同年10月1日から施行され町村合併促進に基づき懇談会座談会等を経て審議されたものであったが、当初予定では(旧)守谷町中心として、大井沢村大野村高野村(以上、現・守谷市)、小絹村(現・つくばみらい市)、高井村同地→現・守谷市それ以外→現・取手市)・稲戸井村(現・取手市)で合併を行う予定であった。この場合予定人口19,612人、世帯数3,432戸、面積58.218km2だった。1954年昭和29年5月7日には1町6ヶによる代表者会議開催し同月26日には関係町村含めた町村10名ずつの代表者による合計70名で構成された「町村合併促進協議会」が発足総務部財務部教育民生部産業経済部土木部の5つ専門部設け守谷町長を会長・他6ヶ村長副会長各部代表者互選による代表者部長として合併促進進められたが、小絹高井稲戸井の3が1町6ヶ合併慎重な態度取った。そのため、組合立中学校等を共同経営し守谷町市場法務局守谷出張所等共同利用、同管轄である守谷町大井沢村大野村高野村での合併進めることとなったその後小絹高井稲戸井の3合併促進促したが、意見一致せず同年8月6日新町建設計画骨格である協定事項25項目を決定したまた、同月29日には新町名を「守谷町」に決定同年11月12日議会合併決議が行われ、同年12月13日県知事に申請。翌1955年昭和30年1月13日付で認可された。これに先立つ1954年昭和29年12月2日には、1町3合併先立ち高井村大字同地人口187人、28宅地33,517.354m2(10,319坪)、耕地469,091.14m2(47町3反))が守谷町編入されることが決定。翌1955年昭和30年2月15日編入された。その翌月3月1日守谷町大井沢村大野村高野村合併が行われ、現在の守谷市域が確定した。 (旧)守谷町 現在の赤法花小山中央ひがし野本町松並松並青葉みずき野百合ケ丘全域及び松ケ丘けやき台一部同地1955年2月15日 - 3月1日まで)に相当する。町の中央海抜20mの台地で、その周辺谷津田となっていた。常総鉄道(現:関東鉄道常総線)が南北通り守谷駅から銚子街道沿いを南に2,000mほど商店街形成町内にある守谷駅常総鉄道内で2位乗降客数であった明治以前より守谷町とされていた区域は、現在の中央ひがし野松並松並青葉百合ケ丘全域本町大部分であり、1881年明治14年)に辰新田村1883年明治16年)に西奥山新田編入現在の本町字辰新田本町奥山新田で、これらを含む1889年以前の旧守谷町が後の大字守谷である)。1889年明治22年)に守谷町小山村赤法花合併し、(旧)守谷町誕生旧町村それぞれ大字守谷大字小山大字赤法花となった大井沢村高野村大野村との合併直前である1954年昭和29年7月時点の旧守谷町人口は4,817人、面積は8.55km2である。翌2月15日には高井村大字同地編入し3月1日の3町1合併まで同地は(旧)守谷町大字となっていた。合併直前町役場所在地守谷町大字守谷19番地1。 以下は、1889年明治22年)から1955年昭和30年)までの旧・守谷町町長である。 代氏名就任退任備考初 平尾譲吉 1899年 1906年2月12日 2 原田時次郎 1906年2月13日 1907年10月25日 3 荒川増郎 1907年10月26日 1909年4月27日 4 野澤章夫 1909年4月28日 1910年6月7日 5 藤平清次 1910年6月8日 1912年3月18日 6 上床重幸 1912年12月7日 1921年3月8日 1917年12月6日挟んで2期連続 7 長谷川亀之祐 1921年4月21日 1927年3月6日 1925年4月20日挟んで2期連続 8 古谷三郎 1925年8月27日 1930年8月26日 9 平尾栄作 1930年8月31日 1934年8月30日 10 古谷三郎 1934年9月11日 1938年9月10日 11 田中三郎 1938年9月11日 1940年1月24日 12 吉田次郎 1940年4月28日 1946年11月25日 1944年2月15日挟んで2期連続 13 奈幡建三 1947年4月25日 1952年5月27日 1951年4月4日挟んで2期連続 14 片山亀之助 1952年6月28日 1954年3月11日 15 吉田次郎 1954年4月23日 1955年2月29日 大井沢村 現在の板戸井大木大山新田久保ケ丘御所ケ丘立沢松前台薬師台及び、緑の一部相当する大字板戸井大字大木大字大山新田大字立沢4大字があった。合併直前である1954年昭和29年7月時点の旧大井沢村人口は2,696人、面積は11.25km2だった。 「大井沢村」を参照 高野村 現在の乙子高野鈴塚美園及びけやき台松ケ丘一部相当する大字乙子大字高野大字鈴塚の3大字があった。合併直前である1954年昭和29年7月時点の旧高野村人口は1,724人、面積は6.29km2だった。 「高野村 (茨城県)」を参照 大野村 現在の大柏野木崎、及び松ケ丘、緑の一部相当する大字大柏大字野木崎の2大字があった。合併直前である1954年昭和29年7月時点の旧大野村人口は2,577人、面積は8.22km2だった。 「大野村 (茨城県北相馬郡)」を参照

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「合併と旧町村」を含む「守谷市」の記事については、「守谷市」の概要を参照ください。

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