単線での開通
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「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「単線での開通」の解説
関門トンネルの建設に合わせて、関門地区の輸送体系の抜本的な改良が構想された。従来の行き止まりの下関駅と門司駅の周辺は、多数の乗換旅客によって繁栄しており、そうした地域事情を考慮して、貨物列車と一部の直通旅客列車のみ関門トンネルに直通させ、ほかの大多数の旅客列車は従来のままとする構想も当初はあった。しかしそうした部分的な改良では将来に輸送上の欠点を残すことになるとして、大規模な改良を加えて関門トンネル直通列車を主体とする構想が打ち出された。 新たな構想によれば、下関駅は従来の駅に貨物扱い設備のみを残して、竹崎町に新たに建設された高架駅に移転させる。九州側では従来の大里駅を門司駅として、関門トンネルを通る山陽本線の列車は大部分を門司駅へ直通させ、従来の門司駅は門司港駅に改称して一部の列車のみを門司港駅発着で残す。また本州側の幡生に上り貨物列車を取り扱う幡生操車場を、九州側の門司に下り貨物列車を取り扱う門司操車場を開設し、下関駅と門司駅のそばには客車の操車場と電気機関車庫を設けるという構想となった。トンネル開通を前にした1942年(昭和17年)4月1日に、門司駅を門司港駅へ、大里駅を門司駅への改称が実施された。 下り線トンネルは、1942年(昭和17年)7月の貨物営業開始、10月の旅客営業開始を目指して最終的な工事が進められつつあった。しかし1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が開戦している状況であり、軍部からは工事促進の厳しい圧力がかかっていた。結局、八田嘉明鉄道大臣の求めにより、予定より1か月開通を繰り上げることになった。1942年(昭和17年)に入ると、星野所長は土日も休みなく連日現場を監督して激励し、突貫工事が続けられた。4月17日に幡生操車場において竣功式が挙行され、ブラスバンドを先頭に職員がトンネル内の記念行進を行った。 1942年(昭和17年)6月11日、EF10形31号機の牽引する4両の無蓋車と1両の有蓋車で構成された編成が、13時38分に門司駅を出発し、初めての試運転列車として関門トンネルを通過した。つないでいたのは貨車であったが、工事関係者や報道陣を乗せていた。鉄道大臣との約束に応えて、ほぼ1か月予定を繰り上げての運転開始であった。正式開通前であるが、6月20日からは臨時扱いで貨物輸送も開始した。7月1日に正式に貨物専用で開通となり、山陽本線の終点がそれまでの下関駅から、関門トンネルを通った先の門司駅に延長となった。関門トンネルの開通により、それまで1日平均185運航で貨物約1万1,000トンを運んでいた関森航路の車両航送は、7月9日限りで廃止となり、使われていた第一・第二・第三・第四・第五関門丸は宇高航路の輸送力増強のために転属していった。 続いて旅客営業の開始の準備も進められ、10月11日に旅客開業を予定していた。しかし8月27日に台風が関門地方を襲い、乏しい資材をやりくりして建設した新しい下関駅のホーム上屋を吹き飛ばされてしまい、開業は延期となった。最終的に11月15日に全国的なダイヤ改正を実施して、関門トンネルでの旅客列車の運行が開始されることになった。10月11日、靖国神社参拝のために上京する九州地方の軍人遺族を乗せた旅客列車が特別に関門トンネルを通過した。開業前には、関門トンネル開通記念の歌が賞金1,000円をかけて一般公募され、選ばれた「海の底さへ汽車は行く」を東海林太郎が歌った。また門司において関門トンネル開通記念大相撲が開催され、当時の横綱双葉山定次と羽黒山政司が下関方坑口において浄めの土俵入りを行った。開通前日の11月14日には下関方坑口にて工事の殉職者を祀る殉職碑の除幕式が行われた。 下関駅では、11月14日23時50分に旧駅出発の最終列車となる京都行きを送り出し、23時52分に最終到着列車を迎えると、徹夜で新駅への引っ越し作業が行われた。新駅では、前日14時15分に京都を出発して走ってきた鹿児島行き第221列車が初列車となり、蒸気機関車を電気機関車に付け替えて、鉄道員たちが万歳をする中、初の旅客列車が関門トンネルへ送り出された。下関駅の関釜桟橋大待合室ではこの日開通式が行われ、山口県・福岡県の両県知事、下関市・門司市の両市長、両県選出の議員、鉄道大臣および鉄道省関係者などが出席した。戦時陸運非常体制が敷かれている中、関門トンネルの開通は国を挙げての祝賀となり、新聞では「興亜鉄路の輝く発足」「科学日本の勝利」などと書きたてた。 11月15日のダイヤ改正を前に10月11日から24時間制が採用され、それまでの午前・午後の区別をやめ午後を13時から24時と呼ぶようになった。11月15日ダイヤ改正で、特急「富士」が九州に乗り入れて東京 - 長崎間で運転されるようになり、このほか東京と九州各地を結ぶ急行列車の設定が行われた。関門トンネルを通過した直通旅客列車の運行は開始されたが、それまでの本州内の列車と九州内の列車をつなぎ合わせたような設定に留まり、本格的な増発はなされず、むしろ戦時輸送力強化のために全般にスピードダウンする改正であった。しかしこのダイヤ改正は過去最高の列車設定キロを達成したものであり、このわずか3か月後の1943年(昭和18年)2月15日ダイヤ改正では戦局の悪化を反映して優等列車の大削減が実施され、以降は輸送力の削減が進むことになった。なお、関門トンネルは従来の門司市街地からは西側に寄った位置にあり、市街地へ行く旅客にとっては遠回りとなって不便であったこともあり、貨車の車両航送を行っていた関森航路がトンネル開通後廃止されたのに対して、旅客輸送を行っていた関門航路の方は減便されつつも運航を継続することになった。 トンネル開通とほぼ同じ時期に、大陸連絡の強化を目的として、下関 - 釜山間の関釜航路の補完航路となる、博多 - 釜山間の博釜航路が開設され、博多港への臨港貨物線も整備された。富野操車場(のちの東小倉駅)、折尾操車場の新設、鳥栖操車場の拡張、黒崎-折尾間の線増、筑豊本線や鹿児島本線の一部区間の複線化など、関連する設備増強が実施され、順次輸送体制が一新されていくことになった。 下り線のトンネル建設費は、当初1,382万円を稟申していたが、その後の物価や人件費の高騰に伴い、決算額としては1,967万円となった。 関門トンネル開通記念乗車券 日本の鉄道70年記念ポスター。関門トンネル開通と24時間制の開始が記載されている
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単線での開通
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こうして1957年(昭和32年)10月1日に木ノ本-敦賀間で深坂トンネルを経由する新線が開業し、北陸本線の営業キロは2.7キロメートル短縮された。距離短縮に加えて電化による牽引力アップと勾配の大幅な緩和により、この区間を通過する列車は20分前後の所要時間短縮となった。深坂トンネルは開通時点で、日本で4番目の長さの鉄道トンネルであった。柳ヶ瀬トンネルを経由する従来の北陸本線は、この日から柳ヶ瀬線と改称してローカル線となった。 新線上には、余呉、近江塩津、新疋田の3駅と沓掛信号場が設置され、また従来線に合流する地点に鳩原信号場が置かれた。
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