単線での開通とは? わかりやすく解説

単線での開通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)

関門トンネル (山陽本線)」の記事における「単線での開通」の解説

関門トンネル建設合わせて関門地区輸送体系の抜本的な改良構想された。従来行き止まり下関駅門司駅周辺は、多数乗換旅客によって繁栄しており、そうした地域事情考慮して貨物列車一部直通旅客列車のみ関門トンネル直通させ、ほかの大多数旅客列車従来のままとする構想当初はあった。しかしそうした部分的な改良では将来輸送上の欠点を残すことになるとして、大規模な改良加えて関門トンネル直通列車主体とする構想打ち出された。 新たな構想によれば下関駅従来の駅に貨物扱い設備のみを残して竹崎町新たに建設され高架駅移転させる九州側では従来大里駅門司駅として、関門トンネルを通る山陽本線列車大部分門司駅直通させ、従来門司駅門司港駅改称し一部列車のみを門司港駅発着で残す。また本州側の幡生上り貨物列車取り扱う幡生操車場を、九州側門司下り貨物列車取り扱う門司操車場開設し下関駅門司駅のそばには客車操車場電気機関車庫を設けるという構想となったトンネル開通前にした1942年昭和17年4月1日に、門司駅門司港駅へ、大里駅門司駅への改称実施された。 下り線トンネルは、1942年昭和17年7月貨物営業開始10月旅客営業開始目指し最終的な工事進められつつあった。しかし1941年昭和16年12月には太平洋戦争開戦している状況であり、軍部からは工事促進厳し圧力かかっていた。結局八田嘉明鉄道大臣求めにより、予定より1か月開通繰り上げることになった1942年昭和17年)に入ると、星野所長土日休みなく連日現場監督して激励し突貫工事続けられた。4月17日幡生操車場において竣功式が挙行されブラスバンド先頭職員トンネル内の記念行進行った1942年昭和17年6月11日EF10形31号機の牽引する4両の無蓋車と1両の有蓋車構成され編成が、1338分に門司駅出発し初めての試運転列車として関門トンネル通過したつないでいたのは貨車であったが、工事関係者報道陣乗せていた。鉄道大臣との約束応えて、ほぼ1か月予定繰り上げて運転開始であった。正式開通前であるが、6月20日からは臨時扱い貨物輸送開始した7月1日正式に貨物専用開通となり、山陽本線終点それまで下関駅から、関門トンネル通った先の門司駅延長となった関門トンネル開通により、それまで1日平均185運航貨物1万1,000トン運んでいた関森航路車両航送は、7月9日限り廃止となり、使われていた第一第二第三第四第五関門丸宇高航路輸送力増強のために転属ていった続いて旅客営業開始準備進められ10月11日旅客開業予定していた。しかし8月27日台風関門地方襲い乏し資材やりくりして建設した新し下関駅ホーム上屋吹き飛ばされてしまい、開業延期となった最終的に11月15日全国的なダイヤ改正実施して関門トンネルでの旅客列車の運行開始されることになった10月11日靖国神社参拝のために上京する九州地方軍人遺族乗せた旅客列車特別に関門トンネル通過した開業前には、関門トンネル開通記念の歌が賞金1,000円をかけて一般公募され、選ばれた「海の底さへ汽車は行く」を東海林太郎歌った。また門司において関門トンネル開通記念大相撲開催され当時横綱双葉山定次羽黒山政司下関坑口において浄め土俵入り行った開通前日の11月14日には下関坑口にて工事殉職者祀る殉職碑の除幕式が行われた。 下関駅では、11月14日23時50分に旧駅出発最終列車となる京都行き送り出し23時52分に最終到着列車迎えると、徹夜新駅への引っ越し作業が行われた。新駅では、前日14時15分京都出発して走ってきた鹿児島行き221列車初列車となり、蒸気機関車電気機関車に付け替えて鉄道員たちが歳をする中、初の旅客列車関門トンネル送り出された。下関駅関釜桟橋待合室ではこの日開通式が行われ、山口県・福岡県の両県知事下関市門司市の両市長、両県選出議員鉄道大臣および鉄道省関係者などが出席した戦時陸運常体制が敷かれている中、関門トンネル開通国を挙げて祝賀となり、新聞では「興亜鉄路の輝く発足」「科学日本勝利」などと書きたてた。 11月15日ダイヤ改正前に10月11日から24時間制採用されそれまで午前・午後区別をやめ午後13時から24時と呼ぶようになった11月15日ダイヤ改正で、特急富士」が九州乗り入れ東京 - 長崎間で運転されるようになり、このほか東京九州各地を結ぶ急行列車設定が行われた。関門トンネル通過した直通旅客列車の運行開始されたが、それまで本州内の列車九州内列車をつなぎ合わせたような設定留まり本格的な増発はなされず、むしろ戦時輸送力強化のために全般にスピードダウンする改正であった。しかしこのダイヤ改正過去最高の列車設定キロ達成したものであり、このわずか3か月後の1943年昭和18年2月15日ダイヤ改正では戦局の悪化反映して優等列車の大削減実施され以降輸送力削減が進むことになった。なお、関門トンネル従来門司市街地からは西側寄った位置にあり、市街地へ行く旅客にとっては遠回りとなって不便であったこともあり、貨車車両航送行っていた関森航路トンネル開通廃止されたのに対して旅客輸送行っていた関門航路の方は減便されつつも運航継続することになったトンネル開通とほぼ同じ時期に、大陸連絡強化目的として、下関 - 釜山間の関釜航路補完航路となる、博多 - 釜山間の博釜航路開設され博多港への臨港貨物線整備された。富野操車場(のちの東小倉駅)、折尾操車場新設鳥栖操車場拡張黒崎-折尾間の線増、筑豊本線鹿児島本線一部区間複線化など、関連する設備増強実施され順次輸送体制が一新されていくことになった下り線トンネル建設費は、当初1,382万円稟申していたが、その後物価人件費高騰に伴い決算額としては1,967万円となった関門トンネル開通記念乗車券 日本の鉄道70年記念ポスター関門トンネル開通24時間制開始記載されている

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単線での開通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:45 UTC 版)

深坂トンネル」の記事における「単線での開通」の解説

こうして1957年昭和32年10月1日木ノ本-敦賀間で深坂トンネル経由する新線開業し北陸本線営業キロは2.7キロメートル短縮された。距離短縮加えて電化による牽引力アップ勾配大幅な緩和により、この区間通過する列車20前後所要時間短縮となった深坂トンネル開通時点で、日本4番目の長さ鉄道トンネルであった柳ヶ瀬トンネル経由する従来北陸本線は、この日から柳ヶ瀬線改称しローカル線となった新線上には、余呉近江塩津新疋田の3駅と沓掛信号場設置され、また従来線に合流する地点鳩原信号場置かれた。

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