単線橋梁の架設
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「利根川橋梁 (東北本線)」の記事における「単線橋梁の架設」の解説
大宮 - 宇都宮間の工事は利根川を境に2分して工事が実施された。大宮から利根川までは1885年(明治18年)1月5日に、利根川から宇都宮までは同年2月2日にそれぞれ着工した。工事は迅速で、半年ほどした7月16日に開通した。この時点では利根川橋梁の建設工事には着手できていなかったため、大宮から来た旅客は利根川の手前の栗橋で下車し、渡し船を利用して利根川を渡って、対岸に設けられた中田仮駅から列車に再乗車して宇都宮へ向かっていた(利根川連絡船)。 ここに架設されることになった利根川橋梁は、200フィート(約60.6メートル)錬鉄製ダブルワーレントラス桁3連、100フィート(約30.3メートル)トラス桁9連からなり、全長461.5メートルで当時の日本でもっとも長い鉄道橋となった。トラス桁の設計はお雇い外国人チャールズ・ポーナルが担当した。中山道幹線において、従来の2倍を超える径間を持つ200フィートトラス桁を揖斐川・長良川・木曽川に架設する計画となってポーナルが設計することになったもので、桁の全長は208フィート10インチ(約63.7メートル)、主構間隔は16フィート2インチ(約4.9メートル)、重量は約200トンで、ポニーワーレン桁であった。この設計図面がイギリス在住の顧問技師トーマス・シャービントンの審査を受けて手直しの上で、イギリスのパテント・シャフト・アンド・アクスルトゥリーが桁を製作した。1886年(明治19年)1月に到着した最初の桁は、揖斐川橋梁に架設される予定であったが、利根川橋梁の工事を優先することになって利根川に送られ、日本で最初の200フィートトラス桁として架設されることになった。 この橋梁は、連絡船により暫定連絡が開始された4か月後の1885年(明治18年)11月に着工された。建設を任されたのは、荒川橋梁などに引き続いて小川勝五郎であった。小川勝五郎は、鳶職人の親方をしていた人物で、多くの人夫たちからも兄として慕われていた。新橋 - 横浜間の鉄道建設に当たって六郷川橋梁の建設を任され、お雇い外国人の指導の下に見事に完成させた。さらに関西において十三川橋梁や神崎川橋梁などの架設を実施して、「鉄橋小川」「鉄橋の勝五郎」などと称されるようになった。こうした功績により、小川は鳶職人出身ながら正式に鉄道局雇として役人の地位に就けられた。そして長浜 - 敦賀間鉄道の建設に従事していた時に、井上勝鉄道局長の直々の命によって当時日本最大の利根川橋梁の建設を指名され、さらに小川の名が高まったという。 利根川橋梁は、煉瓦192万4000本余、セメント2700樽余、石材11300切を費やして、1886年(明治19年)6月17日に開通し、大宮から宇都宮までの直通列車が運行されるようになった。当時日本最大の橋梁の完成を視察するために、明治天皇は同年7月9日に現地へ行幸した。明治天皇はこの日8時40分上野発のお召列車で栗橋へ向かい10時30分に到着し、徒歩で利根川橋梁を渡り、さらに船で構造を視察した。とても暑い日であり、午後からは船で魚を捕ったり川を泳いだりする様子を橋の上から観覧したという。この際に明治天皇は、橋の上から川に飛び込んで見せるものはいないかと発言し、真っ先に小川勝五郎が飛び込んで見せ、さらにその配下の鳶職たちが次々に飛び込んで見せたため、天皇は大変喜んだと伝わっている。15時30分栗橋発の列車で帰還した。こうした功績もあって小川は、以降鬼怒川、箒川、那珂川などの主要な橋梁に加え、東海道本線の富士川橋梁なども任されることになった。またこの時の明治天皇行幸を記念して、東村青年団が1931年(昭和6年)11月に橋のたもとに「明治天皇行幸記念碑」を建立している。 日本鉄道は1906年(明治39年)11月1日に国有化され、1909年(明治42年)10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、大宮 - 宇都宮間を含む線路は東北本線と命名された。これにより利根川橋梁は東北本線の橋梁となった。
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