ロシア時代とチャイコフスキーとは? わかりやすく解説

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ロシア時代とチャイコフスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 10:14 UTC 版)

デジレ・アルトー」の記事における「ロシア時代とチャイコフスキー」の解説

1868年にロベルト・スターニョも所属していたイタリアオペラ団とロシアへ赴いたアルトーモスクワ魅了する。マリア・ベジチェヴァの家での接見では、主人アルトー前に跪きその手口づけ行ったアルトー春に行われたベジチェバ家でのパーティーチャイコフスキー簡単に顔を合わせている。チャイコフスキーはフランソワ・オーベールの『黒いドミノ』へ追加レチタティーヴォ作曲しており、これを用いてアルトーが行った慈善公演の後にも彼女を訪れている。2人音楽関連パーティで再び偶然に遭遇した際、彼女はチャイコフスキーが秋の間にもっと足しげく自分訪ねてくれなかったことに驚いた伝えた。次はそうすると守る気のない約束をした彼であったが、アントン・ルビンシテインからは歌劇場に彼女を見に行くようにと説得受けた。それからアルトーチャイコフスキー毎日招待状を送るようになり、彼の方でも毎晩彼女を訪ねることが習慣となっていった。チャイコフスキー後年、弟のモデスト宛てた手紙の中で彼女について「非常に美し仕草上品な所作芸術的な身のこなし」を身につけていると記している。彼はアルトー神経集中させるべく、交響詩運命』の作曲中断するチャイコフスキー恋愛感情としての興味勝って歌手女優としての彼女により強く魅かれており、個人芸術家分けることが難しかった考えても不自然ではない。彼はピアノのための『ロマンスヘ短調 作品5をアルトーへと献呈している。 年の暮れまでに結婚の話が持ち上がってきていた。このことはチャイコフスキーが自らの同性愛克服しようとした最初の真剣な取り組みであったとされるアルトーと共に旅をしていた彼女の母親結婚反対だった。これには3つの理由がある。まず、アルトーの全公演前列座っていたある名もないアメリカ人男性が彼女に惚れこんでおり、その母親チャイコフスキー出自経済状況に関して嘘を吹き込んだことである。ロシアの文化疎い女にはそれを信じない理由がなかった。次にチャイコフスキー年齢。彼はアルトーよりも5歳年下だった。最後は彼女がチャイコフスキー性行動に関する噂を聞いていたのかもしれないということである。反対にチャイコフスキー父親息子計画後押ししたアルトー自身にはもがく作曲家支えるために自らのキャリア棄てる覚悟はできておらず、チャイコフスキー単なるプリマドンナの夫となる覚悟はなかった。ニコライ・ルビンシテインなどチャイコフスキー友人には、外国の有名歌手の夫になることは彼自身音楽でのキャリア止めてしまうことを意味する、という理由結婚反対した者もいた。事態決め手欠いたままの状態となり、公式には何の発表行われなかった。しかし、2人1869年の夏にパリに近い彼女の地所再会することを期し結婚に関する疑問終結させようとした。その後オペラ興行会社ツアー続けるべくワルシャワ目指し旅立った。しかし、1869年はじめにチャイコフスキー考え改めていた。彼は弟のアナトーリ対し結婚がいずれ行われるとは思えないと書き送った。「この話はややダメになり始めている。」 その事実をチャイコフスキー告げはしなかったものの、当時の社会慣習要請によりアルトーもまた考え変えていた。1869年9月15日セーヴルもしくはワルシャワのどちからにおいて、アルトーは同じ会社一員であったスペインバリトンのマリアーノ・パディーヤ・イ・ラモスと結婚した。パディーヤは彼女よりも7歳年下で、彼女が以前チャイコフスキーに対して笑いものにしていた人物であった電報婚姻知らせ受け取ったニコライ・ルビンシテインすぐさまそれをチャイコフスキー伝え行った。ちょうどオペラ地方長官』のリハーサル最中であった彼はルビンシテインから知らせ聞き、ひどく動転するとリハーサル中止してただちにその場を後にした。 チャイコフスキーがこの問題から立ち直るのは非常に早かった1874年ピアノ協奏曲第1番作曲した際には、彼は緩徐楽章アルトーレパートリー入れていたフランス流行歌Il faut s'amuser et rire』を取り入れている。楽章開始するフルートソロも彼女と関係しているのかもしれない第1楽章第2主題D♭-A(ドイツ語表記Des-A)で始まることについて、音楽学者デイヴィッド・ブラウンアルトーの名前Désirée Artôtを音化したのである主張している。綴りイニシャル音高用いるのはロベルト・シューマンがしばしば用いた方法であり、チャイコフスキーシューマン音楽大い称えていた。D♭-Aの流れ協奏曲全体である変ロ短調という調性決定づける変ロ音で自然に解決されるが、ブラウンによればこれは協奏曲交響曲には非常にめずらあしい調性であるという。有名な第1楽章開始主題平行調である変ニ長調Des)で書かれており、2度奏でられた後は曲中で再現されることはない。ホルン奏される曲頭の短調動きによる主題F-D♭-C-B♭)は、ホルン教授であったアルトーの父に関係している可能性もあるが、作曲者自身表している可能性の方が高い。彼は他の作品中でE-C-B-Aという音の並びを自らの署名として用いており、このホルン主題E-C-B-Aイ短調から変ロ短調へと移調したものだからである。他にもチャイコフスキー自分の名前をこの協奏曲暗号化して忍ばせたり、アルトーの名前を交響詩運命』、交響曲第3番幻想序曲ロメオとジュリエット』に隠したとする指摘がある。チャイコフスキーは『運命』の筋書き明らかにすることはなく、さらに後年には総譜破棄してしまったのである。 『ロメオとジュリエット』を作曲中の彼の頭には、アルトー記憶が非常に鮮明に残っていた。シェイクスピア戯曲悲劇と自らの個人的な喪失相同性導き出すのは容易であったミリイ・バラキレフは『ロメオとジュリエット』の愛の主題D♭、すなわちDes書かれている)を変わった言葉選んで称賛している。「2つ目の変ニ長調旋律喜ばしい中略)愛の儚さ甘さ溢れており(中略)この曲を弾いてみて頭に浮かんだのは、貴方が裸で浴室横たわりアルトー=パディーヤその人香りのよい石鹸から熱い泡を作り貴方の腹部洗っている情景でした。」1869年5月チャイコフスキーはじめに『ロメオとジュリエット』の作曲提案したのはバラキレフであった初版完成1869年11月29日であり、アルトーがパディーヤと結婚してからまだ2か月であった1870年12月アルトーモスクワ巡業の折には、チャイコフスキーグノーの『ファウスト』でマルグリート役を演じる彼女を聴きに出かけている。頬を伝って涙を流した伝えられているものの、この時に2人で会うことはしなかった。1875年に再びモスクワ訪れたアルトーは、マイアベーアの『ユグノー教徒』で歌っている。ある日音楽院ニコライ・ルビンシテイン訪ねたチャイコフスキー友人ニコライ・カシュキンは「ある外国人女性」がルビンシテインオフィスにいるので待って欲しと言われた。すぐに姿を現したその外国人女性デジレ・アルトーであった。彼女もチャイコフスキーあまりに取り乱して言葉を交わすことができず、彼女は足早にその場を後にした。チャイコフスキー吹き出して「それで私は自分が彼女と恋仲にあるのかと思った!」と口にしたのであった1887年ベルリンでのベルリオーズ『レクイエム』公演に際してチャイコフスキーと会う機会訪れた2人喜んで関係性新たにしたが、過去起こったことについては触れられなかった。1888年2月4日アルトーは再びベルリンチャイコフスキー会っている。チャイコフスキー同地での5日間は毎日彼女と過ごす時間作り2月7日夕方をラントグラフシュトラーセ17で共に過ごした際に彼女はチャイコフスキーロマンス自分のために作曲してくれるよう頼んだチャイコフスキー日記には次のようにある。「今夜は私のベルリン逗留記憶の中で最も心地良いもののひとつに数えられる。この歌い手性格芸術性にはこれまで変わらず抗しがたい魅力がある。」5月になると、彼は8月までに歌曲仕上げることを手紙約束している。夏の間、彼は10月19日完成することになる幻想序曲『ハムレット』など、いくつも大作時間取られてしまった。この時までに彼はアルトー当時声域念頭に、彼女へ向けて1曲ではなく6曲の歌曲作ることを心に決めていた。テクストとして選ばれたのは3人の詩人によるフランス語の未翻訳作品であった。こうして『フランス語歌詞による6つの歌作品6510月22日完成されデジレ・アルトー=パディーヤへと献呈されたのである10月29日付のアルトー宛てた書簡の中でチャイコフスキーは彼女が曲集を気に入ってくれることを願いつつ、こう綴った。「人は自分偉大な人物たちの中でも特に偉大だと思う歌手のために作曲をしていると、少々怖気づいてしまうものですね。」

※この「ロシア時代とチャイコフスキー」の解説は、「デジレ・アルトー」の解説の一部です。
「ロシア時代とチャイコフスキー」を含む「デジレ・アルトー」の記事については、「デジレ・アルトー」の概要を参照ください。

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