『ロメオとジュリエット』の作曲
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「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「『ロメオとジュリエット』の作曲」の解説
バラキレフの横暴さはチャイコフスキーとの関係に暗い影を落としたが、それでもなお両者は互いの力量を認めあっていた。軋轢を生みはしたものの、バラキレフはチャイコフスキーに対して何度も作品を書き直すよう説得できる唯一の人物だったのである。それは幻想序曲『ロメオとジュリエット』にて行われた。バラキレフの助言に従ってチャイコフスキーが下敷きとした彼の作品『リア王』は、ベートーヴェンの演奏会用序曲の例に倣いソナタ形式で書かれた悲劇的序曲であった。筋書きを中心的な争いのひとつだけに減らして、音楽としてはソナタ形式の二部構造で表そうとしたのはチャイコフスキーの案であった。しかし、我々が知るように音楽でその構想が実現したのは2回の徹底的な改訂の後になってからある。バラキレフはチャイコフスキーが送付した初期稿の多くを破棄し、楽曲は両者の間の活発な意見とともにモスクワとサンクトペテルブルクの間を行き来し続けたのであった。 チャイコフスキーはバラキレフの助言から数点のみを取り入れた後、1870年3月16日に行われたニコライ・ルビンシテインによる第1項の初演を了承する。結果は惨憺たるものであった。この失敗が身にこたえたチャイコフスキーはバラキレフの批判を心に留めるようになる。彼は音楽院での学習の枠を超えるよう無理をして曲の大部分を書き直し、現在の形へと仕上げたのである。『ロメオとジュリエット』によりチャイコフスキーは初めて国内外での喝采を浴びるようになり、5人組も無条件に本作へ賛辞を贈るようになる。『ロメオとジュリエット』の愛の主題を聴いたスターソフは彼らにこう告げる。「かつてあなた方5人がいましたが、今は6人となりました。」5人組のこの作品への熱狂は大きなもので、彼らの会合があるとバラキレフはいつでもピアノで弾いて聞かせるようせがんでいたほどであった。彼はあまりにもそれを繰り返したため、記憶を頼りに自ら演奏できるようになっていた。 ローレンスとエリザベス・ハンソンをはじめとする評論家の中には、もし1862年にチャイコフスキーが音楽院に入学せずバラキレフの一団に加わっていたらどうなっていただろうか、と考えを巡らせる者もいる。彼らはチャイコフスキーがバラキレフに尻を叩かれ、着想を与えられるまで『ロメオとジュリエット』を書かなかったという事実を証拠に挙げ、チャイコフスキーはより早く一人前の作曲家に成長したかもしれないと考えている。長い時間をかける中で彼がどれほどうまく成長できただろうか、というのはまた別の問題である。オーケストレーションなどの彼の音楽的技能の多くは、音楽院で受けた対位法、和声、音楽理論の徹底した基礎講義の賜物なのである。その基礎講義がなければ、後の偉大なる作品群を生み出す能力は育まれなかったかもしれないからである。
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