ロシア時代 1865 – 1896
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「アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー」の記事における「ロシア時代 1865 – 1896」の解説
ヤウレンスキーは、6人兄弟の第5子として1865年に生まれた。父の大ゲオルギ・ニキフォロヴィチ・ヤウレンスキーは、息子アレクセイが17歳の時に他界している。母のアレクサンドラ・ペトロヴナ・メドヴェーデヴァは父の後妻であった。(以下、本項で扱うアレクセイ・ヤウレンスキーを指してヤウレンスキーと呼ぶ。)ヤウレンスキーは16年間家族とともにモスクワで育ち、士官になることを期待された。1882年にモスクワで開かれた「共同国際展覧会」で初めて絵画を見たヤウレンスキーは絵画への非常な憧憬を抱いて独学で絵の勉強を始め、画力とデッサン力を養うために日曜日と金曜日の度にトレチャコフ美術館に通った。士官となったヤウレンスキーは1889年の異動でモスクワを離れ、サンクトペテルブルクで任についた。同地で軍人としてすごす傍ら、夕方にはロシア帝国芸術アカデミー(現在のサンクトペテルブルク美術大学)に通った。 アカデミーでは描写の腕を磨いた。ここで彼はロシアの写実主義を代表するイリヤ・レーピンを知ったが、師事することはなかった。1892年、レーピンはヤウレンスキーに油彩の個人指導の師として、レーピンの以前の個人弟子で、裕福な男爵令嬢マリアンネ・フォン・ヴェレフキンを推薦した。彼女は当時、ロシアで女流芸術家としてかなりの成功を収めており、「ロシアのレンブラント」と呼ばれていた。ヴェレフキンは、この貧乏帝国士官に絵画を講じ芸術を教授する決意をした。彼女は、ヤウレンスキーはふさわしい援助を受けるべく運命づけられており、素晴らしい芸術作品を生み出すだろう、というみずからの勘を信じたのであった。
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