ジェロニモの抵抗
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1876年、アリゾナ州知事アンスン・P・サフォードはジェフォーズ監督官の更迭を要求し、地元新聞「アリゾナ・シチズン」紙は次のように社説を載せた。 「チリカウア・アパッチ族に対する戦いは、絶え間なく、無慈悲かつ絶望的で、無差別なものでなければならない。男はもちろん女だろうが子供だろうが皆殺しにし、最後には谷や山頂、険しい岩山、砦のいたるところから、膿みただれゆくチリカウア・アパッチの小気味よい腐臭の煙を立ち昇らせようではないか。」 地元からの抗議に応え、連邦政府は6月にチリカウアの保留地の保留を解消し、集められる限りの部族民を、すでに4000人の別のアパッチ支族が居住するサンカルロス・アパッチの保留地に強制移動させることとした。これにチリカウア族の半分は従ったが、半分はジェロニモとともにメキシコに逃亡した。 1877年春、アメリカ合衆国のジョン・クラムというサンカルロス保留地監督官は、「話し合い」をジェロニモに持ちかけて油断させ、これを捕縛し、サンカルロス保留地に連行した。1872年にハワード将軍が指定したこの保留地は、ヒーラ川の両岸にまたがる1万3000㎢の不毛の土地だった。合衆国は山岳民族であるアパッチ族に、毒蛇や毒虫の横行するこの乾燥した土地で強制労働を課していた。インディアン監督官たち白人はアパッチ族に対する保留地年金をピンはねし、食糧を横流しして横領した。 1881年、絶望的なアパッチの収容所となったサンカルロス保留地では、ノチ・アイ・デル・クリンという呪い師の、「死んだ偉大なアパッチの戦士が蘇り、再び自由なアパッチの世界を取り戻す」という教理が急速に拡がっていた。8月にインディアン監督官はこの呪い師を逮捕しようと85人の米軍兵士を、保留地の端にあるノチ・アイ・デル・クリンの家まで派遣した。騎兵隊の接近を宣戦布告と受け取ったアパッチ族と、白人兵士との交戦となり、呪い師と併せ、双方に死者が出た。保留地周辺に援軍の米軍兵士が集まるのを見て、ジェロニモは自分が縛り首になるとのうわさを聞き、9月に74人の仲間とともに再度メキシコに逃げた。翌年4月、ジェロニモは馬と銃を持ってサンカルロス保留地に戻り、残っていたアパッチ族を解放した。 1883年5月南西部方面軍に赴任したジョージ・クルック将軍は「アパッチを制するにはアパッチを使うべきだ」と考え、197人のインディアン斥候(アパッチ族以外も含む)と共にメキシコに遠征した。アパッチ族をよく知るインディアン斥候はメキシコ山中のジェロニモたちの宿営地を急襲し、アパッチ族を9人殺し、コーチーズの孫娘を含む5人のアパッチを捕虜にした。これは山中では無敵を誇ったアパッチ抵抗者たちにショックを与えた。5月20日にメキシコ領内でクルックと会見したジェロニモは、クルックが意外にも話せる白人だと考え、2か月以内に保留地に戻ると約束した。 1884年3月に、アパッチ抵抗戦集団はメキシコから合衆国へ入った。このとき、ジェロニモは交易に使うつもりで350頭の牛を連れていたが、これを白人当局に没収されてしまったため、最初から深い憤りに満ちていた。アパッチ族にとって、牛馬を盗むことは部族の美徳、英雄行為であり、この牛たちはアパッチにとって正当な財産だったからである。クルックは劣悪な保留地について、幾つかの改良を行ったが、地元の新聞はクルックがジェロニモに対してあまりに寛大であると批判し、ジェロニモを悪者扱いした。 インディアンは酒造文化を持たないが、アパッチ族はその数少ない例外の一つだった。彼らはトウモロコシを発酵させた弱いビールを楽しむが、白人たちは保留地でアパッチ族に禁酒を強制し、強い不満がアパッチ族に高まっていた。 1885年5月7日、ジェロニモは10数人の仲間と、アパッチ族伝統のビールで故意に宴会を開き、アパッチ族の飲酒の正当性を挑発誇示してみせた。サンカルロス保留地の白人将校はこれをクルックに充てて電報を打とうとし、インディアン斥候隊長のアル・シーバーに見せた。アル・シーバーはこのときひどい二日酔いで、「大した事じゃないよ」とつぶやいた。これを聞いた白人将校は電報を打つのをやめてしまった。いつまでたっても白人が何も言ってこないので、ジェロニモは次第に不安になり、子供を含む男女134人とともに再びメキシコ側に逃亡した。クルックは電報の一件を聞いて激怒した。彼は「もし私がこのことを知っていたら、こんな事態にはならなかったと確信している」と述べている。 1885年から翌年にかけての冬の間、クルックは騎兵20個中隊、インディアン斥候200名余という、対アパッチ戦史上最大規模の軍勢でシェラマドレ山脈でのアパッチ追跡行を行った。1月に一度アパッチを襲って馬と食糧を奪ったが、3月になってついにメキシコ国境を越えようとしているジェロニモに追いついた。クルックはインディアンに対する偏見を隠そうともせず、こう回想している。 「我々の絶え間ない追跡で彼らには疲労の色こそ隠せないが、肉体的状態はすこぶる良好で、完全部族した猛虎さながらの精悍さだった。自分たちがどれほど無慈悲な人非人なのか知っているため、彼らはほかのあらゆる人間を信じない。我々は彼らが1000人の兵力で包囲しても逮捕できる見込みのない場所に野営を張っていた。彼らは敵が接近してもすぐに周囲の峡谷に四散して身を隠すことが出来た。」 白人はあくまでもはジェロニモを「指導者」だと思っているから、クルックも終始ジェロニモ個人との会談を望み、ジェロニモの同意を他のアパッチの総意と誤解している。しかしインディアンの社会は合議制に基づいており、部族民を率いる「指導者」や「首長」は存在しない。部族のもめごとは調停者である首長がとりまとめるが、ジェロニモは戦士であって首長ではない。 ジェロニモとクルックは2日に渡って会談を行った。ある記録では、交渉の為の会合を設定している間に、アパッチ族の多くの者が強い酒を与えられ、地元の牧場主による噂を吹き込まれた。ジェロニモとその集団は雨の降る暗い夜に、男女と子供合わせた38人とともに逃亡した。クルックは彼らを捕まえられなかった。もともとインディアン斥候の大量動員に反対していたフィリップ・シェリダン将軍はこの失敗でクルックを譴責し、こう電報を送った。 「貴下の昨日の報告書を受け取った。甚だ残念に思う。インディアンの斥候に気付かれずにジェロニモたちが逃亡できたのは奇妙な話である」 インディアンを全く信用しないシェリダンのこのそっけない返報に嫌気のさしたクルックは辞任した。後任は1886年4月にネルソン・マイルズ准将が継いだ。マイルズは2ダース以上のモールス信号用の日光反射信号機を山頂30か所に設営し、5,000名の兵士、500名のアパッチ族斥候、100名のナバホ族斥候および数千の白人民兵を組織して、ジェロニモとその仲間の探索に向かわせた。ジェロニモたちは日光反射板を白人の魔法だと思い、山頂には近づかなかった。 1886年4月、ジェロニモたちはメキシコ側とアリゾナ側で襲撃を行い、人命と馬、糧食を奪った。ジェロニモたちがマイルズの警戒をかいくぐって襲撃を繰り返すさまに、南西部全体は病的な恐慌状態となった。地元新聞はアパッチの襲撃による死者の数を数十倍に誇張し、「ジェロニモには150人の配下がいる」と主張した(インディアンには「上司」も「配下」も存在しない)。「ジェロニモは狼煙で保留地の仲間を先導している」、「すでに米軍かメキシコ軍に一掃されている」といった噂も囁かれたが、実際にはこの時期にはアパッチ抵抗者たちは6月にシェラマドレ山中の奥深くで休息していて、一人の死者も出ていなかった。 1886年9月、マイルズはインディアンに精通したチャールズ・ゲートウッド中尉を説得役に派遣した。ゲートウッドはジェフォーズのような豪胆な人物で、インディアン斥候2人と25人の護衛隊のみでメキシコに向かった。ちょうどアパッチ族は、メキシコのフロンテアスという町にメスカル酒入手のために女たちを使いに出していた。ゲートウッドはその町でメキシコ人がインディアンの皆殺しを企んでいることを聞き、一計を案じて隊を減らし、8月下旬にアパッチの女一人を尾行した。こうして、ゲートウッドはジェロニモと会談することとなった。彼らは安全のため人質を取りあい、一対一で面談した。ジェロニモはゲートウッドに、「我々が降伏したら米国は何を提供してくれるのか」と聞いた。ゲートウッドは「お前たちは無条件降伏あるのみで、お前は逮捕されフロリダに強制移送されるだろう」と答えた。ジェロニモは「保留地へ連れて行くならよし、さもなければ戦いだ」と迫った。 しかしゲートウッドは、ジェロニモの家族がすでに米軍によってフロリダの強制収容所へ送られていることを教えた。これを聞いたジェロニモは意気消沈し、マイルズとの会談に応じたい、と言った。女子供を含むジェロニモたち37人のアパッチ族は投降したが、マイルズはわざと会談の日に姿を現さなかった。9日間待たされ、しびれを切らせたジェロニモたちはゲートウッドにシェラマドレ山脈へ一緒に帰らないかと提案したほどだった。 9月3日、ようやくマイルズが現れ、アパッチ族抵抗者たちはフロリダ州のピケンズ砦に強制収監された。女や子供はフロリダ州のマリオン砦に収監された。このなかにはジェロニモ追跡に登用されたアパッチ斥候もいたが、白人にはアパッチの敵も味方も見分けがつかなかったので、彼らもいっしょくたにフロリダに送られた。多くの者がそこで死んだ。ジェロニモは二年間フロリダに幽閉され、家族とは一度も面会を許されなかった。 降伏から8年経った1894年、生き残ったチリカウアの抵抗者たちはインディアン準州のシル砦に送られ、絶望と病気で大半がまたたく間に死んだ。ジェロニモ達は降伏したが、白人侵略者たちは彼と38人のアパッチ族の降伏を得るために5000人の白人を必要としたのである。 保留地で強制労働を強いられたアパッチ族の社会は崩壊し、その子供達は同化政策のもと、ペンシルベニア州のカーライル学校に連行された。彼ら児童は白人の伝染病やストレスによって、50人以上が死んでいった。
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