ジェロニモの抵抗とは? わかりやすく解説

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ジェロニモの抵抗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 07:04 UTC 版)

アパッチ戦争」の記事における「ジェロニモの抵抗」の解説

1876年アリゾナ州知事アンスン・P・サフォードはジェフォーズ監督官更迭要求し地元新聞「アリゾナ・シチズン」紙は次のように社説載せた。 「チリカウア・アパッチ族に対す戦いは、絶え間なく無慈悲かつ絶望的で、無差別なものでなければならない。男はもちろん女だろうが子供だろうが皆殺しにし、最後には谷や山頂険し岩山、砦のいたるところから、膿みただれゆくチリカウア・アパッチの小気味よい腐臭の煙を立ち昇らせようではないか。」 地元からの抗議応え連邦政府6月にチリカウアの保留地保留解消し集められる限り部族民を、すでに4000人の別のアパッチ支族居住するサンカルロス・アパッチの保留地強制移動させることとした。これにチリカウア族の半分従ったが、半分ジェロニモとともにメキシコ逃亡した1877年春、アメリカ合衆国のジョン・クラムというサンカルロス保留地監督官は、「話し合い」をジェロニモ持ちかけて油断させ、これを捕縛しサンカルロス保留地連行した1872年ハワード将軍指定したこの保留地は、ヒーラ川の両岸にまたがる1万3000不毛の土地だった。合衆国山岳民族であるアパッチ族に、毒蛇毒虫横行するこの乾燥した土地強制労働課していた。インディアン監督官たち白人アパッチ族対す保留地年金ピンはねし食糧横流しして横領した1881年絶望的なアパッチ収容所となったサンカルロス保留地では、ノチ・アイ・デル・クリンという呪い師の、「死んだ偉大なアパッチ戦士蘇り、再び自由なアパッチ世界取り戻す」という教理急速に拡がっていた。8月インディアン監督官はこの呪い師逮捕しよう85人の米軍兵士を、保留地の端にあるノチ・アイ・デル・クリンの家まで派遣した騎兵隊接近宣戦布告受け取ったアパッチ族と、白人兵士との交戦となり、呪い師併せ双方死者出た保留地周辺援軍米軍兵士が集まるのを見てジェロニモ自分縛り首になるとのうわさを聞き9月74人の仲間とともに再度メキシコ逃げた翌年4月ジェロニモは馬と銃を持ってサンカルロス保留地戻り残っていたアパッチ族解放した1883年5月南西部方面軍赴任したジョージ・クルック将軍は「アパッチ制するにはアパッチを使うべきだ」と考え197人のインディアン斥候アパッチ族以外も含む)と共にメキシコ遠征した。アパッチ族をよく知るインディアン斥候メキシコ山中ジェロニモたちの宿営地急襲しアパッチ族を9人殺しコーチーズ孫娘を含む5人のアパッチ捕虜にした。これは山中では無敵誇ったアパッチ抵抗者たちにショック与えた5月20日メキシコ領内クルック会見したジェロニモは、クルック意外に話せる白人だと考え、2か月以内保留地に戻ると約束した1884年3月に、アパッチ抵抗集団メキシコから合衆国入った。このとき、ジェロニモ交易に使うつもりで350頭の牛を連れていたが、これを白人当局没収されてしまったため、最初から深い憤り満ちていた。アパッチ族にとって、牛馬を盗むことは部族美徳英雄行為であり、この牛たちはアパッチにとって正当な財産だったからである。クルック劣悪な保留地について、幾つかの改良行ったが、地元新聞クルックジェロニモに対してあまりに寛大であると批判しジェロニモ悪者扱いした。 インディアン酒造文化持たないが、アパッチ族はその数少ない例外一つだった。彼らはトウモロコシ発酵させた弱いビールを楽しむが、白人たちは保留地アパッチ族禁酒強制し、強い不満がアパッチ族高まっていた。 1885年5月7日ジェロニモ10数人仲間と、アパッチ族伝統ビール故意宴会開きアパッチ族飲酒正当性挑発誇示してみせた。サンカルロス保留地白人将校はこれをクルック充て電報打とうとし、インディアン斥候隊長のアル・シーバーに見せたアル・シーバーはこのときひどい二日酔いで、「大したじゃないよ」とつぶやいた。これを聞いた白人将校電報を打つのをやめてしまった。いつまでたっても白人が何も言ってこないので、ジェロニモ次第不安になり、子供を含む男女134とともに再びメキシコ側逃亡したクルック電報一件聞いて激怒した。彼は「もし私がこのことを知っていたら、こんな事態にはならなかったと確信している」と述べている。 1885年から翌年にかけての冬の間、クルック騎兵20個中隊、インディアン斥候200名余という、対アパッチ戦史最大規模軍勢でシェラマドレ山脈でのアパッチ追跡行を行った1月一度アパッチ襲って馬と食糧奪ったが、3月になってついにメキシコ国境越えようとしているジェロニモ追いついた。クルックインディアン対す偏見隠そうともせず、こう回想している。 「我々の絶え間ない追跡で彼らには疲労の色こそ隠せないが、肉体的状態はすこぶる良好で、完全部族した猛虎さながら精悍さだった。自分たちがどれほど無慈悲な人非人なのか知っているため、彼らはほかのあらゆる人間信じない。我々は彼らが1000人の兵力包囲して逮捕できる見込みのない場所に野営張っていた。彼らは敵が接近してもすぐに周囲峡谷四散して身を隠すことが出来た。」 白人あくまでもジェロニモを「指導者」だと思っているからクルック終始ジェロニモ個人との会談望みジェロニモ同意を他のアパッチ総意誤解している。しかしインディアン社会合議制基づいており、部族民を率いる「指導者」や「首長」は存在しない部族もめごと調停者である首長とりまとめるが、ジェロニモ戦士であって首長ではない。 ジェロニモクルック2日渡って会談行った。ある記録では、交渉為の会合設定している間に、アパッチ族多くの者が強い酒を与えられ地元牧場主による噂を吹き込まれた。ジェロニモとその集団の降る暗い夜に男女子供合わせた38とともに逃亡したクルックは彼らを捕まえられなかった。もともとインディアン斥候大量動員反対していたフィリップ・シェリダン将軍はこの失敗クルック譴責し、こう電報送った。 「貴下昨日報告書受け取った甚だ残念に思うインディアン斥候気付かれずにジェロニモたちが逃亡できたのは奇妙な話である」 インディアンを全く信用しないシェリダンのこのそっけない返報嫌気のさしたクルック辞任した後任1886年4月ネルソン・マイルズ准将継いだマイルズは2ダース上のモールス信号用の日光反射信号機山頂30か所に設営し、5,000名の兵士500名のアパッチ族斥候100名のナバホ族斥候および数千白人民兵組織してジェロニモとその仲間探索に向かわせた。ジェロニモたちは日光反射板白人魔法だと思い山頂には近づかなかった。 1886年4月ジェロニモたちはメキシコ側アリゾナ側で襲撃行い人命と馬、糧食奪ったジェロニモたちがマイルズ警戒かいくぐって襲撃繰り返すさまに、南西部全体病的な恐慌態となった。地元新聞アパッチ襲撃による死者の数数十倍に誇張し、「ジェロニモには150人の配下がいる」と主張したインディアンには「上司」も「配下」も存在しない)。「ジェロニモ狼煙保留地仲間先導している」、「すでに米軍メキシコ軍一掃されている」といった噂も囁かれたが、実際にはこの時期にはアパッチ抵抗者たちは6月にシェラマドレ山中奥深く休息していて、一人死者出ていなかった。 1886年9月マイルズインディアン精通したチャールズ・ゲートウッド中尉説得役に派遣した。ゲートウッドはジェフォーズのような豪胆な人物で、インディアン斥候2人25人の護衛隊のみでメキシコ向かった。ちょうどアパッチ族は、メキシコのフロンテアスという町にメスカル入手のために女たち使い出していた。ゲートウッドはその町でメキシコ人インディアン皆殺し企んでいることを聞き一計案じて隊を減らし8月下旬アパッチの女一人尾行した。こうして、ゲートウッドはジェロニモ会談することとなった。彼らは安全のため人質取りあい、一対一面談したジェロニモはゲートウッドに、「我々が降伏した米国何を提供してくれるのか」と聞いた。ゲートウッドは「お前たち無条件降伏あるのみで、お前は逮捕されフロリダ強制移送されるだろう」と答えたジェロニモは「保留地連れて行くならよし、さもなければ戦いだ」と迫った。 しかしゲートウッドは、ジェロニモ家族がすでに米軍によってフロリダ強制収容所送られていることを教えた。これを聞いたジェロニモ意気消沈しマイルズとの会談応じたいと言った女子供を含むジェロニモたち37人のアパッチ族投降したが、マイルズはわざと会談の日に姿を現さなかった。9日待たされ、しびれを切らせジェロニモたちはゲートウッドにシェラマドレ山脈一緒に帰らないかと提案したほどだった。 9月3日、ようやくマイルズ現れアパッチ族抵抗者たちはフロリダ州ピケンズ砦に強制収監された。女や子供フロリダ州マリオン砦に収監された。このなかにはジェロニモ追跡登用されアパッチ斥候もいたが、白人にはアパッチの敵も味方見分けがつかなかったので、彼らもいっしょくたフロリダ送られた。多くの者がそこで死んだジェロニモは二年間フロリダ幽閉され家族とは一度面会許されなかった。 降伏から8年経った1894年生き残ったチリカウアの抵抗者たちはインディアン準州シル砦に送られ絶望病気大半またたく間死んだジェロニモ達は降伏したが、白人侵略者たちは彼と38人のアパッチ族降伏を得るために5000人の白人を必要としたのである保留地強制労働強いられたアパッチ族社会崩壊しその子供達は同化政策のもと、ペンシルベニア州カーライル学校連行された。彼ら児童白人伝染病ストレスによって、50人以上が死んでいった。

※この「ジェロニモの抵抗」の解説は、「アパッチ戦争」の解説の一部です。
「ジェロニモの抵抗」を含む「アパッチ戦争」の記事については、「アパッチ戦争」の概要を参照ください。

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