アラビア語圏での展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 12:42 UTC 版)
8世紀にアッバース朝が建設した都バグダードは、ペルシア文化の影響が強く、まず導入されたのはインドの天文学やその影響を強く受けたペルシア流の天文学であった。このときに導入された天文学書の形式が「天文表(zij)」である。これは、天文計算の手順、天文定数、数表、(球面)三角法の説明などを含む天文計算のためのハンドブックである。内容的にもインド天文学の影響が比較的強い。欧州で中世を通じて影響力のあった『アルフォンソ天文表』もこの伝統に属する。 9世紀に知恵の館を中心にギリシア語文献の翻訳が盛んになると、『アルマゲスト』も翻訳され、徐々にインド流天文学を置き換えていく。10世紀の前半までには、サービト・イブン・クッラやバッターニーなど、理論・観測両面で独自の研究が開始されている。バッターニーの精度の高い観測データは、近代に入っても使用された。 11世紀初頭までには、天文学をはじめ、さまざまな学問が成熟期を迎える。ビールーニー『マスウード宝典』は天文学に関わるほぼ全ての事項を網羅した大著である。また、イブン・スィーナー『治癒の書』は、ギリシア系の諸学問をほぼ網羅した著作群である。新プラトン主義によって変容したアリストテレス主義を基本とし、イスラム思弁神学の議論も踏まえて、独創的な形而上学や自然学を展開した。天文学に関する部分は『アルマゲスト』の要約であるが、自身も天文学の研究にも乗り出しており、観測機器の改良や経度の計測に一定の成果を挙げている。また、『治癒の書』の天体論、魂論、形而上学では、哲学的な宇宙論を展開している。 この頃になると、西方のスペインや北西アフリカは独自の天文学は、東方から自立した伝統を確立する。最初の著しい達成は、11世紀後半に完成した『トレド天文表』で、次の世紀にラテン語訳され、『アルフォンソ天文表』に置き換えられるまで広く用いられた。その編集に参画したといわれるザルカーリー はプトレマイオスの体系に独自の修正を施し、また、Ibn Muʿādh al-Jayyānīは大気圏の厚さが薄明かりの観測から見積もった。西方の天文学は東方のそれを必ずしも受け継いでおらず、例えば、ペルシア〜中央アジアで活躍したビールーニーの大著は参照された形跡が希薄で、むしろそれ以前のフワーリズミー、バッターニー、サービト・イブン・クッラなどの影響が色濃い。のちのラテン語圏への学問の流入の際、特に天文学においては、スペインのアラビア語圏およびユダヤ人が主な情報源であった。 中世のアラビア語圏では、インド系天文学の影響を受けて、計算手法の洗練が著しく進んだ。また、支配階層が占星術に関心を示し、宗教的な儀式や行事の正確な日時の決定を好む風土があったため、古代に比べると著しく観測体制が充実し、観測装置も新たなものが作られ、比較的精度の高いデータの継続的な蓄積があった。幾何学的なモデルにおいても、インドの理論は『アルマゲスト』とは別の選択肢を提示してくれた。これにより、古代はほとんどなされなかった『アルマゲスト』の検証や修正が進んだ。 例えばプトレマイオスは太陽の遠地点を不動としていたが、ビールーニーは前の世紀から蓄積された観測に基づき修正する。この問題は、すでに前世期の観測から問題が提起されていたが、精確な観測が開始された直後では断定が困難であった。蓄積されたデータを背景に、ビールーニーは観測値がわずかな不具合で結果が大きく狂うことに注意し、先人の誤りを断言した。この後、アラビア語圏の東半分では、先人のデータの誤りへの修正をあまり躊躇しなくなった。ビールーニーは、この発見をプトレマイオスのような偉大な先人でも誤り得る例として重視した。後にウルディーがプトレマイオスの理論を大胆に修正した際、この遠地点の移動の例を引き合いにだしている。なお、西方においても、ザルカーリー が太陽の遠地点の移動を断言する。しかし、西方においては、一般的に先人のデータも含めて説明できる理論を作ることが好まれた。 インド系の理論が採用された例としては、プトレマイオスによって存在が否定された、金環食の問題がある。ビールーニーは同心球体説の可否とからめてこの問題を論じ、観測の報告例から、金環食の存在を肯定し、インドの天文学書から金環食の予想を可能にする理論を拾い出す。この理論を用いて金環食の予測と観測に成功したのは、14世紀初め、マラーガ天文台においてであった。 このように、プトレマイオス理論を実地で検証して修正する作業は、大いに進んだ。ただし、ティコ・ブラーエ以降に比べれば観測の精度の改善はまだ十分ではなく、天体の見かけの位置の観測値と『アルマゲスト』の理論との差は、修正を施せばで乗り切れる程度であった。 そこで宇宙論(haya)の主要な問題は、後に述べるように、『アルマゲスト』の宇宙論の物理的に不自然な点、ないしはアリストテレス自然学の間の不整合な点の解消であった。ただし、アリストテレス自然学も、大枠では受け入れられたとはいえ、個々の論点では異論は絶えなかった。例えばビールーニーはイブン・スィーナーとの論争で、天界の不変性は証拠が十分でないとして慎重論を示すほか、アリストテレス自然学の様々な命題に反論を提示する。アル=クーヒーやイブン・ハイサムは、流星や彗星、銀河までの距離の直接的な評価を元に、それらが大気圏の現象か否かを議論しようとする。これは、「変化が激しいか否か」を基準に両者を区別しようとした古代の議論とは異なった考えにもとづいている。イブン・ハイサムはまた、月の模様を月が均質でない証拠だとする。 宇宙論(ハイア, haya)の最大の問題であった、『アルマゲスト』の宇宙論の物理的に不自然な点については、ビールーニーなど多くの批判があったが、イブン・ハイサムは『プトレマイオスへの懐疑』を含む一連の著作でまとまった形でプトレマイオス批判を展開し、東西アラビア語圏での議論を誘発する。そして、黄緯の理論における周転円の振動を球の回転で近似する方法を提案する 11世期の終わりから12世紀にかけて、スペインではイブン・バーッジャ、イブン・トゥファイル、そして「注釈者」と後にラテン語圏でよばれたイブン・ルシュドは、アリストテレス主義の観点から、プトレマイオス理論を批判する。これらの議論を受けて、アル・ビトゥルージは、エウドクソス流の同心球体仮説を提案するが、プトレマイオス理論の予測を再現することはできなかった。ジャービル・ブン・アフラフは、『アルマゲスト修正』で内惑星の視差と太陽の視差についての、『アルマゲスト』の矛盾を指摘し、太陽面通過が観測されないことから、これらを太陽よりも上方に置いた。これらは翻訳を通じて、ラテン語世界の議論を刺激する。 この西方での動きは、マイモニデスなどを通じて東方にも伝わったと思われる。13世紀には、東方アラビア語圏でも天文学改革が始まるが、西方とはやや方向性が異なっていた。13世期のナスィール・アル=ディーン・トゥースィー (Nasir al-Din Tusi) の率いたマラーゲ天文台では、大規模で高精度の観測が長期に渡って行われたが、天文台に参加した天文学者の中には、彼を含め、ムアイヤドゥッディーン・ウルディー、クトゥブッディーン・シーラーズィー(英語版)ら、プトレマイオス理論の改革をするもの達がいた。ただし、同心球体説へのこだわりは捨てられ、全てを等速回転する球で構成すること(エカントなどの除去)を徹底することで満足し、むしろプトレマイオス理論の再現を優先した。なお、ビールーニーの提案に基づいて、金環食の理論的な予測と観測が成し遂げられたのも、このマラーゲ天文台であた。 14世紀マムルーク朝、ダマスカスのイブン・シャーティル (Ibn al-Shatir) は、マラーゲ天文台で発展した手法を用い、エカントも離心円も用いずに周天円だけを用いる理論を作る。そして、太陽と月については、プトレマイオスの理論を大いに改善し、観測される見かけの大きさの変動を説明することができた。また、黄緯については、周転円の傾きを固定した理論を作る。これは、外惑星についてはプトレマイオスの理論とほぼ同じ予測を生み出す。 これらの理論、特にイブン・シャーティルの理論コペルニクスの理論の類似性はかねてより指摘されている。とくに、ペルニクスの『天球の回転について』の黄経の理論は、パラメータの違いを除けば、周転円の一つを地球の軌道に書き換えると完全に一致する。様々な状況証拠から、アラビア科学史の専門家には、理論の伝搬を主張したり仄かしたりする研究者は多い。しかし、著作のラテン語訳は存在せず、仄かされる伝搬経路は仮説の域をでない。伝搬の有無はさておき、この類似は、コペルニクスの理論と中世的な天文学との連続性を強調するときにも用いられる。 中世アラビア語圏において、天動説以外の可能性が真剣に探求されたことはなかった。しかし、論理的な可能性としては、常に地動説的な理論は念頭にあった。例えばビールーニーはアーリヤバタの地球自転論を紹介した上で、棄却している。また、地動説的な理論への反駁をアリストテレス『天体論』への注釈で述べたり、金星の太陽面通過の「観測」(おそらくは誤認)から、金星が太陽を周回する可能性を否定したりといった議論はあった。 そして、『アルマゲスト』の地球静止の論証の可否については、13世紀のトゥスィー以降、継続的な議論があった。『アルマゲスト』でプトレマイオスは、日周運動を地球の自転に帰した場合、地表の速度が非常に高速になることを指摘し、大きな影響が感知されないはずはないとする。これに対してトゥスィーは、大気など地表面のものも「親和性」によって地球と共に動くはずで、地球が運動していても、プトレマイオスの言うような効果は起こさないとした。ただし、アリストテレス的な自然学の原理から、地球は静止ししているとする。これに対しては、シーラーズィー (英語版)は、投げ上げられた岩の大きさによって、地球に引きずられる度合いも異なるはずであるから、地球の運動は存在すれば検知できるはずだとする。15世紀のアリー・クーシュチー (英語版)は、てトゥスィーと同様の議論でプトレマイオスの議論に反駁した上でアリストテレス的な自然学の原理も拒否し、地球の運動も静止も証明不可能だとする。なお、ラテン西欧においても、トゥスィーと同様のプトレマイオスへの論駁がニコル・オレームやコペルニクスによって展開される。
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