解剖学 解剖の歴史

解剖学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 14:36 UTC 版)

解剖の歴史

西洋における解剖の歴史

フラゴナール博物館。18世紀フランスの解剖学者フラゴナールによるエコルシェのコレクション所蔵

解剖の歴史は古く、紀元前3500年頃に古代エジプトで記述され、紀元前1700年頃に写筆されたエドウィン・スミス・パピルスには頭蓋縫合や表面の状態といったことが事細かに記述されており、この時代にはすでに人体解剖が行われていたと推測されている。

古代ギリシャの哲人であるヒポクラテスが、ヤギの頭を切り開いてを調べた他、様々な解剖学についての記述が、ヒポクラテスの弟子が編纂した「ヒポクラテス著作集」に記述されている[2]

またその100年ほど後、アレキサンドリアの医師であったヘロフィロスが人体解剖を行ったと言われている[3]

しかし、宗教的・道徳的見地から病理解剖も非人間的な行為と考えられるようになり、従来の定説では人体の解剖は厳しく禁じられるに至ったといわれている[4]。古代における医学の集大成をなしたガレノスは数多くの解剖を行ったが、人体解剖が禁じられていたためにブタサルヤギなどの動物を解剖せざるを得ず、人体からかけ離れた知識も残存していた[5]。ただし、例えばローマ教皇ボニファティウス8世1300年に解剖を涜聖罪に定めたが、直接解剖行為を禁止したものではなく宗教的見地から遺体の地上への放置等を禁じた内容だったといわれている[4]

再び解剖学が活発な動きを見せたのはルネサンス期である。1500年代に入るとボローニャ大学で体系立てた解剖学の研究が始められ、1543年パドヴァ大学アンドレアス・ヴェサリウスは実際に解剖して見たものを詳細に著した“De humani corporis fabrica”(人体の構造)を出版し、近代解剖学の基礎を築いた[6]

18世紀にはパリ大学でもウィーン大学でも解剖の講義が実施されていた[4]。ただし、これが臨床医学の基礎となる病理解剖学に位置づけられるものかは更なる考察が必要とされている[4]

病理解剖学と臨床医学が結び付くのはマリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャなどの相互調整の結果であり19世紀以後のことである[4]

サミュエル・トマス・フォン・ゼンメリンクは、最初にドイツ語で(1791–1796)、次にラテン語で(1794–1800)、解剖学の体系書を公表した。1800年から1801年にドイツ語第2版が刊行され、さらに1841年から1844年にかけて全8巻からなる改訂版が刊行された。

ザビエル・ビシャの「一般解剖学」は、解剖学の歴史における記念碑としての価値がある。解剖学としては、明確かつ自然な配置、正確で精密な説明などの特徴がある。生理学としては、一般的に正しく、しばしば斬新な観察を反映している。ビシャは第3巻の編集中に亡くなり、その後、PJ RouxとMFR Buissonが編集を継続し、完成した。

ヘンリー・グレイは、ロンドンにあるセント・ジョージ病院の解剖学者、外科医であり、「グレイ解剖学」を刊行した。画家として才能があるヘンリー・ヴァンダイク・カーターの助力で、グレイは医学生のために安価でアクセスしやすい解剖学の教科書を作成した。 1832年にイギリスで制定された解剖法は身寄りのない遺体の解剖を容認するので、解剖法に基づいて、死体安置所の遺体を18ヶ月に渡って解剖した。「グレイの解剖学」は1858年に最初に出版された。

社会的背景

医学及び医療の発展に伴って、大学医学部で解剖実習に使用される遺体の需要が増大した。19世紀以前は、処刑された犯罪者の遺体が解剖されることがほとんどであり、まれに親族から提供された遺体が解剖された。というのは、当時の西欧社会では、死後に遺体が解剖されることは、死よりも悪い運命と考えられていた。

1752年にイギリスで制定された「殺人法」では、殺人事件の被告人の遺体を死後に解剖して医学の発展に貢献することが認められた。被告人が絞首刑になった後、絞首台から遺体を下ろすときに医学生が立ち会い、誰が遺体の解剖を行うかを議論したものであるが、解剖医は死刑執行人と同様に恐れられていた。

死体泥棒

19世紀前半までは、イギリス、米国などで解剖用遺体が不足していたので、墓地に埋葬された遺体が盗まれて、解剖されることがあった[7]。死体泥棒という行為は、広く恐怖と反感を引き起こしたのだが、更に、解剖の対象となる恐ろしさが加味された。

殺人事件

1827年から1828年にかけてスコットランドの首都、エディンバラでウェストポート殺人事件が起きた。即ち、人体解剖に適した人が殺され、その遺体が売られた。この殺人事件が契機となって、1832年にイギリスで解剖法が制定され、ようやく十分な数の解剖用遺体が供給される制度が整備された[8]

日本における解剖の歴史

日本の歴史において最初の人体解剖は『日本書紀』第十四巻にある、雄略天皇の命によって行われた稚足姫皇女の解剖とされる。ただしこれは一種の法医解剖であり、系統的な解剖ではなかった[9]。その後、701年に成立した大宝律令では解剖の禁止が明文化されたと言われているが、原文は残存していないため詳細は不明である[9]

その後の日本史において、解剖が行われたのは江戸時代になってからのことである。京都の医学者山脇東洋は、人体の解剖が医学にとって不可欠であると考え、師の後藤艮山に相談した。後藤はこの時「腑分は官の制するところにて(解剖は幕府が決めること)」という回答を行ったが、幕府が明示的に解剖を禁止した法令は確認されていない[10]。ともかく山脇は当局の許可を得、宝暦4年(1754年)閏2月7日に京都の刑場で刑死者の解剖を行った。山脇はこの成果をまとめ、『蔵志』として出版した。これに対して佐野安貞・吉益東洞・田中愿仲・福岡貞亮といった医者たちは、「腑分無用論」を唱えて山脇を批判したが、幕府関係者からの批判はなかった[10]

『解体新書』(複製)
国立科学博物館の展示

その後、明和4、5年(1767年1768年)には東洋の子の玄侃が、7年(1770年)に荻野元凱、河田信任などが、刑屍を解剖した。明和8年(1771年)3月4日前野良沢杉田玄白などが小塚原で解剖を行なった。前野らはこれを機に西洋医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめることとなり、『解体新書』の完成につながったことは『蘭学事始』などに詳しい。寛政5年(1793年)に晁俊章が、8年(1796年)に柚木太淳が、10年(1798年)施薬院三雲が、刑屍の解剖を行なって記録を残した。呉秀三によれば、山脇東洋の宝暦4年(1754年)の解剖から、田代万貞、半井仲庵などが文久元年(1861年)福井で行なった解剖まで、記録に残された解剖は34例であったという。

解剖が系統的に行なわれる様になったのは明治3年(1870年)以後である。長谷川泰石黒忠悳らは大学東校から解剖のことを弁官に申請し、裁可を得た。すなわち同年10月20日付の申請に対して即日、「可為伺之通事」という裁可があった。同月27日に清三郎の死体が第一号として解剖され、12月までに52体集まった。その中には雲井龍雄の死体もあった。また、明治2年(1869年)に田口和美により井上美幾女の死体が解剖された事があり、その墓は東京白山の念速寺にある[11]


  1. ^ 三木成夫『生命形態の自然誌 第1巻 解剖学論集』うぶすな書院、1989年。ISBN 4-900470-03-1 
  2. ^ 塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』1987年10月20日 p.28-29
  3. ^ http://www.zkai.co.jp/z-style/medical_info/essay/essay_02b.asp [リンク切れ]
  4. ^ a b c d e 小林昌広『病い論の現在形』(1993年) pp.163-166
  5. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p137-138 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  6. ^ 「医学の歴史」pp164-165 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷
  7. ^ 『Body Snatching: The Robbing of Graves for the Education of Physicians in Early Nineteenth Century American History.』McFarland、1992年。 
  8. ^ Rosner, Lisa (2010). The Anatomy Murders: Being the True and Spectacular History of Edinburgh's Notorious Burke and Hare and of the Man of Science Who Abetted Them in the Commission of Their Most Heinous Crimee. University of Pennsylvania Press 
  9. ^ a b 石出猛史 2008, pp. 221.
  10. ^ a b 石出猛史 2008, pp. 222.
  11. ^ 美幾女墓 文京ふるさと歴史館文京区指定文化財データベース、2013年9月2日閲覧。






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