松田優作 松田優作の概要

松田優作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/04 08:40 UTC 版)

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まつだ ゆうさく
松田 優作
生年月日 (1949-09-21) 1949年9月21日
没年月日 (1989-11-06) 1989年11月6日(40歳没)
出生地 日本山口県下関市
死没地 日本東京都武蔵野市(武蔵野陽和会病院)[1]
国籍 日本
身長 183 cm
血液型 A型
職業 俳優
歌手
活動期間 1972年 - 1989年
配偶者 松田美智子
1975年 - 1981年
松田美由紀
1983年 - 1989年
著名な家族 熊谷真実(義姉)
松田龍平(長男)
松田翔太(次男)
ゆう姫(次女[注釈 1]
主な作品
テレビドラマ
太陽にほえろ!
俺たちの勲章
大都会 PARTII
探偵物語
新・夢千代日記
映画
暴力教室
人間の証明
遊戯シリーズ
蘇える金狼
野獣死すべし
家族ゲーム
探偵物語
ア・ホーマンス
華の乱
海外映画
ブラック・レイン
 
受賞
日本アカデミー賞
優秀主演男優賞
1979年蘇える金狼
1983年家族ゲーム
1985年それから
1988年嵐が丘』『華の乱
特別賞
1989年
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1983年家族ゲーム』『探偵物語
報知映画賞
主演男優賞
1983年『家族ゲーム』『探偵物語』
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経歴

生い立ち

山口県下関市今浦町で、日本人の父と当時、質屋を営む韓国人(在日1世)の母との間に非嫡出子として生まれた[5][6]。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった[7]。父親は優作が生まれてすぐに死んだ[2]。2人の異父兄がおり、(異母兄弟もいる)[要出典]兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。

1957年下関市立神田小学校へ入学。1963年下関市立文洋中学校へ入学。1966年山口県立下関第一高等学校(現・山口県立下関中等教育学校)へ入学[2]1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により[2]、不本意ながら山口県立下関第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する[2][8]

カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市シーサイド高校入学[8]。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退し帰国する。シーサイド大学の体育館で観たニューヨークアングラ劇団「ラ・ママ」を観て、こんな世界があるのかと感銘を受け[2]、芝居をやりたいと思い立ち帰国[2][8]。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年に関東学院大学文学部に入学する。

1970年代の活動

1971年3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格[2]。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団[8]。ここで最初の妻美智子と知り合う。

1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、文学座同期には阿川泰子高橋洋子山西道広、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたという[9]。また、1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、客として来ていたひし美ゆり子原田大二郎村野武範らと知り合い交友を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦した。岡田が後で聞いた話によると、村野は優作を優秀な俳優として推薦したわけでなく、この前日麻雀に負けた時の約束で、仕方なく優作を岡田に紹介したということだった[10]。岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、芝居に対する体当たりの真剣さと、強引とも思える度胸の良さに驚く[11]。テストでチョイ役に出演させると、迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれた[12]。これがきっかけで、1973年刑事ドラマ太陽にほえろ![注釈 3]にジーパン刑事としてレギュラー出演[13]、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝狼の紋章』にて映画初出演を果たした。

同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得[7]。これにより、通名だった松田優作が本名となった。

1974年には黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。松田優作は原田芳雄に心酔し、後に原田の隣の家に引っ越したという[14]。続いて74年11月公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公[15]で映画初主演を果たす。映画評論家、樋口尚文は、同作品に高評価を与えている[16]

1976年1月31日、前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される[2]。このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛した[17][注釈 4]。岡田晋吉は「鹿児島などの事件で芸能界が彼を半年間の謹慎処分にしたというのは噂だけです。真相は松田自身が"休みたい"と自分から相談を持ち掛けたからで、仕事をしないのはあくまで松田自身の自主規制です。私自身、スケジュールさえ合えばすぐに彼と仕事がしたいと思っています」と述べている[2]。同年2月5日、東京地方検察庁は傷害容疑で松田を起訴[18]、同年3月10日東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける[7]

1976年、東映暴力教室』 (岡本明久監督)により映画復帰を果たす[19]。同作品では安西マリアらと共演した。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバムまつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。

1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。この映画の前には、ハワイへ飛び、射撃場で実弾射撃演習をおこなった[14]。同年、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。

1980年代の活動

1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、『奥歯を4本抜き』、さらに山籠もりまでしたという[14]1981年黒澤満を信頼し[20]熊谷美由紀と一緒に東映[4]セントラル・アーツに移籍[20]。この後、アクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。また、70年代後半には、サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、映画業界でよく知られていた。この時期には音楽活動にも熱中し、ドラマ「探偵物語」では自身の出演場面を減らした回もあった。行きつけの酒場「レディ・ジェーン」の店主、大木雄高によれば、ジャズフリー・ジャズや、ピアソラのタンゴなどを好んで聴いていたという。

1981年泉鏡花原作の文学作品『陽炎座[注釈 5]、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージとは異なる役柄を演じた。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。また、82年の向田邦子ドラマで桃井かおりと共演した際に、桃井から「ドラマをなめてる」と言われ、大げんかになったこともある[14]

1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となった[14][注釈 6]。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である[注釈 7]

病と死去

1988年深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後、遺作ともなったアメリカ映画ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身がに侵されている事を知るが、延命治療を拒み、撮影に挑んだ(妻の松田美由紀によると、癌の診断を信用せず次々に医師を変え、治療に進まなかったため知己の医師に「今は癌ではないが放置すると癌になる」と説得してくれるよう頼んでいたという)。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。

1989年8月頃から腰が痛いと言い始め[3]、10月6日、第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に「どうしても挨拶したい」と出席したが[3]、舞台挨拶を断り帰宅[3]。これが公に見せた最後の姿だった[3]。翌10月7日、東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)に入院[3]

1989年11月6日午後6時45分、入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去した[1]。40歳没[注釈 8]。法名は「天真院釋優道」。墓所は東京都あきる野市築地本願寺西多摩霊園。所属事務所の後輩で、松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん! 起きてください! 早すぎるよ!!」と泣き叫んだ。葬儀には萩原健一、倍賞美津子らも参列した。萩原健一は妻の松田美由紀の手を取り、涙ながらに弔意を述べていた。

没後

2000年の発表の『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の12位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」でも第12位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・男優』では日本男優6位となっている[21]

日本郵便が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に松田主演の映画『蘇える金狼』が選ばれた[22]

人物

  • 公称・身長185cmの長身(妻・美由紀証言では実身長183cm)と発表されていたが石原裕次郎が公称181cmとなっており、183cmでは身長差がないので185cmと発表したとプロデューサーが言っていた。1975年に本人に取材した記事では186cmと述べている[8]。番組ではタフなキャラクター、抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、基本的にアクション・スタント シーンにスタントマンを使うことはなかった(『探偵物語』のバイクジャンプシーンなど、度を越した危険なシーンなどではスタントマンを起用している)。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。
  • 初期のプロフィールには空手2段と書かれていたが、国際空手道連盟・極真会館機関誌には1969年6月20日付、4級合格者として記録されている。同日付では第1回世界大会優勝者・佐藤勝昭と一緒であり最終的な昇級昇段は不明である。
  • デビュー前の大学生時代にTVドラマ「ワイルド7」にエキストラ出演しており、最終話「スパイダーの最後」でその姿を確認する事が出来る。ゴールド・サタン:山本麟一のボディーガード役で後ろに立っている。
  • デビュー時はアクションスターとして注目されたが、演出家に対して徹底して食いついて演出面にも追求(カップに注がれた消え物コーヒーについて「なぜ湯気が立っているんだ!」「これは誰が飲むものなんだ!」など)するなど芝居に対して非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じるキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優(古尾谷雅人又野誠治など)も登場した。
  • 自分の仲間を非常に大事にし、中村雅俊丸山昇一佐藤蛾次郎萩原流行など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。佐藤は後年「優作ほど先輩を立てる役者はいなかった」と振り返っている。店で打ち上げをやっていた時に、同じ店に来ていた他の客がバカにしたような口調で佐藤に「蛾次郎ー」と、囃し立てると松田は激怒し本気でその客に殴りかかりそうになったというエピソードもある。
  • 大都会シリーズで監督を務めた舛田利雄は、台本に無いセリフを連発したり、台本に無い演技をする松田について、「ああいう役者は好きな様にやらせておけばいい、そうでないと使う意味が無い。」と評した[23]
  • 元妻の松田美智子の話によると、優作は遊郭の一角で生まれ育ったことや、韓国国籍であることを死活問題のように悩んでいたという。また、美智子は「ファンが語る優作は、どこか漫画的です。[24]」と語っている。
  • 麻雀が非常に強かったと関係者は語っている。また後の自身の主演映画『最も危険な遊戯』の冒頭の雀荘のシーンにて「その強さ」を自身の役柄である殺し屋・鳴海の口から語らせている。
  • 『太陽にほえろ!』を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、「走る姿を研究しろよ」と答えたという。そもそも松田の前任だったマカロニ刑事役の萩原健一を番組出演へと説得する際に、監督の竹林進が言った「走ってる姿を撮りたい」を基本コンセプトに、「走る」事は同番組の代名詞として後々まで受け継がれた。
  • 『大都会PARTII』の撮影中、ロケ現場ではしゃいでいる子供にからかわれた事があり、その際「考えると俺達って昼間からこんなおかしい事をやっているんだよな…」と自分が一般とは違う世界で生きているのに気づき、それを期に「よし、誰にも文句を言わせない作品を撮るぞ!」と決心し、それが後のモチベーションにつながった。
  • 六月劇場の研修生だったころ、黒澤明監督の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫った。しかし、3日経っても黒澤に会う事は出来ず追い返されてしまう。後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語っていた。
  • 下積み時代、「俺が売れないのは一重瞼だからだ」とコンプレックスをもらしており、後に瞼を二重に整形している[25]。金銭面で困窮していた時期であったが何とか手術費用を捻出した。当時の二重瞼の手術の主流は切開法であり、術後約1週間で抜糸を行うが「費用がまた何万円もかかるのではないか…」と懸念した松田は抜糸予定日に病院へは行かず、自宅で鏡を見ながら裁縫用の小さなハサミを用いて抜糸をしたと語っている。その際、無理に糸を引き抜き、消毒も十分にしなかったため後々まで跡が残った。実際は抜糸までが手術費用に含まれており、再診でかかる費用はせいぜい消毒代と化膿止めの薬代、数千円程度であったと後に知り、後悔したと言う。
  • 松田美由紀は松田を「普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程だった」と言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁のいわゆるオヤジ眼鏡だった。
  • 『太陽にほえろ!』出演当時は運転免許を有していなかった為、車の運転場面は全て代役である。勝野洋下川辰平も同様であった。後の『探偵物語1979年(昭和54年)ではベスパに乗っているが、自動二輪免許は所有していた。さらに後には4輪免許も取得 (文学座時代から親しかった重松収によれば、普通自動車免許は、『ブラック・レイン』の撮影がすべて終わり、帰国したのと同時に取得[26]。松田優作本人が自動車の運転をしている作品は、遺作「華麗なる追跡 THE CHASER」となる)。ドラマでベスパを使用することを助言したのは、友人の岩城滉一。当時の松田は中型自動二輪免許(現:普通二輪)を取得したばかりで、プライベートではホンダGL400に乗っていたが岩城の「それダサイよ」の一言で、ベスパを使う決心をしたと云われている。
  • 角川春樹によれば、要領が良い反面、臆病な一面があり、映画『人間の証明』のニューヨークでのロケ撮影中に傷害沙汰を起こし、角川が示しをつけるためホテルに呼び出した際、入室直後に「何をされても結構です」と土下座を噛まし、タイミングの可笑しさで角川の怒りを治めてしまったが、その後の飲み会でダウンタウンに行った際、黒人しかいない店に入ると終始怯えた表情を取り、「怖いのか?」と角川が訊くと、「いえ」と強張りながら飲み続けていたという[27]
  • ロバート・デ・ニーロは映画『ブラック・レイン』での松田の演技を絶賛、共演したいと松田にオファーを出したが、亡くなった事を知り落胆したという話がある。
  • 一日100本以上のヘビースモーカーであった。しかし、尊敬する渡哲也が「大都会PARTII」の撮影で出番以外禁煙を始めた事を受け、優作自身は禁煙まで行かなかったが一日15本まで減らしたという。
  • 1980年(昭和55年)4月29日放送の『徹子の部屋』に出演した際は、飲酒、喫煙しながらトークをおこなった[28](もっとも、当時同番組において同様の例は他のゲストでも多く見られた)。
  • 2009年(平成21年)、松田優作本人が穿いていたジーンズをイメージして作られた特製ジーンズ(股下38インチ、左フロントポケットはライターの定位置だったために四角形に色落ち)が20回忌となる11月6日にフルカウントより発売された。
  • 吉田拓郎のファン[29]

注釈

  1. ^ 美由紀との長女(#家族参照)。
  2. ^ 戸籍上では1950年昭和25年)9月21日生まれになっており、本来の学年より1年遅れで義務教育を終了している。その為、萩原健一中村雅俊は本来は1学年下だが、戸籍上では同じ年に義務教育を終了している同学年である。
  3. ^ 第53回から登場。青木英美も登場している。
  4. ^ 事件の真相は、鹿児島市内の飲食店でスタッフが地元のOLを交えて打ち上げをしていた時、解散近くになってスタッフとOLとの一組のカップルができあがった。打ち上げ終了後、このカップルがタクシーを拾おうとしているのをOLの友人が見つけ、カップルについて行こうとした。そこで松田とEが「野暮なことをするなよ」と引き止めようとしたところ、彼女と押し問答になり、それを目撃した予備校生が木刀を持って駆けつけ、松田に木刀を振り上げた。そこで松田とEが予備校生に反撃した、ということだったという (出典は脚注4)。[疑問点]
  5. ^ 鈴木清順が監督。
  6. ^ 併映は澤井信一郎監督作品『めぞん一刻』。
  7. ^ この作品は石橋凌寺島進の映画デビュー作品でもある。ここで役者に開眼した石橋は松田を師と仰ぐ事となり、音楽活動と平行して俳優業にも力を入れていくことになる。
  8. ^ ただし前述のとおり戸籍上は1950年9月21日生まれとなっていたため、多くのメディアは松田の没年齢を「39歳」と報じている。
  9. ^ 2019年3月現在、本人のTwitterアカウントのプロフィールでは「Yuki Matsuda」および「ゆう姫」と表記されている[31]
  10. ^ 映画「ヨコハマBJブルース」主題歌。
  11. ^ 松田優作 with EX。

出典

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 松田美智子「越境者松田優作」『スタア』、新潮社、2008年。 
  3. ^ a b c d e f 「ZIG・ZAG ガンと知りながら闘病…… 松田優作の惜しまれる死!」『週刊宝石』1989年11月23日号、光文社、206頁。 
  4. ^ a b 山本, 俊輔、佐藤, 洋笑、映画秘宝編集部編 編 『セントラルアーツ読本』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2017年、345頁。ISBN 978-4-8003-1382-9 
  5. ^ 「元妻・美智子氏が初めて語る・松田優作 日本国籍への想い」『週刊文春』2007年5月17日号、文藝春秋。
  6. ^ 織川隆「松田優作とふたりの女」『新潮45』新潮社、2006年1月号。
  7. ^ a b c 松田美智子『越境者 松田優作』2008年、新潮社、65、96、108-110、121-130頁。
  8. ^ a b c d e 「ブラウン管の気になる男たち 松田優作」『スタア』1975年9月号、平凡出版、8–9頁。 
  9. ^ 「特撮専門誌宇宙船」VOL.36 (1987年6月号) の夏夕介のインタビューより。
  10. ^ 岡田 2003, pp. 68–69.
  11. ^ 岡田 2003, p. 70.
  12. ^ 岡田 2003, p. 71-72.
  13. ^ http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-13852
  14. ^ a b c d e J.COM,2019年11月号、松田優作特集記事、p.15
  15. ^ あばよダチ公”. Movie Walker. 2019年3月19日閲覧。
  16. ^ 樋口尚文 『ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画』平凡社、2009年7月、306頁。ISBN 9784582854763 
  17. ^ 鶴田浩司「松田優作の死」『ニッポン映画戦後50年』1995年、朝日ソノラマ。
  18. ^ ジーパン刑事起訴 ロケ先で乱暴の松田優作『朝日新聞』1976年2月6日朝刊、13版、23面
  19. ^ https://www.allcinema.net/cinema/145543
  20. ^ a b 山口猛 『松田優作 炎 静かに』社会思想社現代教養文庫1505〉、1994年、43-45頁。ISBN 4-390-11505-7 
  21. ^ オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。
  22. ^ 〜胸躍るあの映画、感動のシーンが切手に!〜 特殊切手「日本映画」発行”. 日本郵便. 2014年7月21日閲覧。
  23. ^ 舛田利雄、佐藤利明、高護 『映画監督舛田利雄 : アクション映画の巨星舛田利雄のすべて』Hotwax責任編集、ウルトラ・ヴァイヴ、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年11月、287-288頁。ISBN 9784401751174 
  24. ^ 「日経エンタテインメント!・松田美智子インタビュー」2008年4月号。
  25. ^ 知ってるつもり?!』「松田優作」。
  26. ^ 2010年12月22日、NHK放送、ドキュメンタリー番組「ラストデイズ-“お前は、オレになれる” 松田優作×香川照之」
  27. ^ 『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P124
  28. ^ “徹子の部屋.27日、放送1万回 自然体トークで40年”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2015年5月22日). オリジナルの2016年4月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20160403215658/http://mainichi.jp/articles/20150522/dde/018/200/029000c 2015年5月22日閲覧。 
  29. ^ 2015年11月20日発行東京新聞夕刊1面
  30. ^ 優作さん娘ベール脱ぐ 6月CDデビュー、12年から素性隠し活動”. Sponichi Annex (2015年5月12日). 2015年5月12日閲覧。
  31. ^ YJY(@YJYmusic)さん | Twitter”. 2019年3月19日閲覧。
  32. ^ 『週刊明星』1981年4月23日号
  33. ^ 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年。
  34. ^ 小林信彦「<正義>をめぐる木村拓哉の喜劇 (HERO)」『コラムの逆襲 エンタテインメント時評 1999〜2002』新潮社、2002年。
  35. ^ 帰ってきた渡り鳥 渡り鳥・流れ者シリーズ・他研究サイト[リンク切れ](2002年12月23日時点のアーカイブ
  36. ^ 創刊号に付属のシリーズガイドより。


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