吉田茂 生涯

吉田茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 15:29 UTC 版)

生涯

生い立ち

1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区[注釈 1]に生まれる[2]。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった[1]。実母の身元はいまでもはっきりしない[1]。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[1]

小学時代の吉田

吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新(めいじいしん)をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の所産であった[3]

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる[2]ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[4]。養父・健三が40歳で死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した[2]。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などと言っている[5]

学生時代

少年期は、大磯町西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。

同年9月から、日本中学(日本学園中学校・高等学校の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校一橋大学の前身)に籍を置くが、商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾東京物理学校東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科学習院大学の前身)を卒業した。

同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅の他、武者小路公共池邊龍一林久治郎藤井實らがいた。

外交官時代

1918年山東省済南領事として勤務していた吉田は、岳父の牧野伸顕と共にパリ講和会議に出席した[6]。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[7]。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満洲事変以後もその点で一貫していた[8]中華民国奉天総領事館総領事を務めた時代に東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官[2]に就任する[注釈 2]

1931年より駐イタリア大使、但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、このころ第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[注釈 3]統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた[10][11]

1936年(昭和11年)の二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣内閣書記官長を予定したが、寺内寿一陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後日本軍はアメリカ本土空襲レンネル島沖海戦オーストラリア空襲など一部勝利を重ねたため成功しなかった。

しかし1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[12]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[注釈 4]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[12][2]

第二次世界大戦後

外務大臣就任

1945年内閣総理大臣幣原喜重郎(前列中央)ら幣原内閣の閣僚らと

終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任[2]。 短期間のうちに東久邇宮内閣が立ち行かなくなると東久邇、木戸幸一近衛文麿らは吉田に後継首相となるよう説得に当たったが固辞[14]。同年10月には吉田も後押しした幣原が首相に担ぎ上げられ、吉田は引き続き幣原内閣の外務大臣に就任した。同年12月、貴族院議員に勅選される。

内閣総理大臣就任

1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。大蔵大臣石橋湛山を任じて傾斜生産復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進めた。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。

自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた[15]。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし吉田は、首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し[16]、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。

第2次、3次吉田内閣

1951年9月8日施政方針演説にて

このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。 これを受けて吉田は民主自由党単独で第2次内閣を組織した。その直後に社会党などの野党は内閣不信任を提出、可決されたため、吉田は衆議院を解散した(馴れ合い解散)。第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた[17]

1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は、長い間、米議会下院非米活動委員会をモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法公安調査庁内閣調査室が、1952年(昭和27年)に、設置、施行されるきっかけを作る[18]。アメリカでは当時、赤狩り旋風が吹き荒れていた。

サンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ平和条約署名式にて

朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。

側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)した。第25回衆議院議員総選挙自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田が衆議院予算委員会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり[19]三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。

1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞などに多大なる批判を浴びせられた[20]。また、同年6月3日警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎議院警察権を発動させて国会警官隊を初めて投入した[21]。同年7月1日には保安庁保安隊防衛庁自衛隊に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせたものと言われている。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて[22]断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日[2]

造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分とした。

内閣総理大臣退任後

1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退した。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。

1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中華人民共和国との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた中華民国を池田勇人首相の特使として訪問、蔣介石と会談した(吉田書簡)。同年秋、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。同年には、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米した。1965年(昭和40年)、米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。

その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた義理の甥にあたる武見太郎医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。

死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である[23]。翌20日正午ごろ、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという[24]。享年90(満89歳没)。

佐藤栄作首相は東南アジア訪問中だったが[25][26]、予定を繰り上げて21日夜に帰国[26]、羽田空港から吉田邸に直行して遺体と対面した[26]。22日未明に鎌倉の別邸に戻り[26][27]、同日夜に再度吉田邸を訪問した[26]。棺に納められていた吉田愛用のステッキが遺族から佐藤に贈られた[26]。佐藤は代わりに自分のステッキを棺に入れた[26]

10月22日に死後洗礼を受け[28][29]、洗礼名は「ヨゼフ・トーマス・モア吉田茂」であった[28][29]

10月23日東京カテドラルで密葬が行われた[28][29]。長男の健一は浄土宗での葬儀を希望したが、長女の桜子、三女の和子、次男の正男がカトリック葬を希望した[28]。東京カテドラルは、1941年10月に妻・雪子の葬儀が行われ、吉田が涙を流した場所だった[29][30]。幡ヶ谷火葬場で火葬され、遺骨は大磯の祭壇に置かれた[29]10月31日には戦後初の国葬日本武道館で行われ[31]官公庁や国公立の学校半休公営競技も開催を終日取り止めた[32][33]。テレビ各局も国葬実施前後に派手な番組やコマーシャルメッセージ(CM)の放送を行うことを自粛すると共に実施当日は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ[注釈 5][注釈 6][33]

戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。遺骨は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年神奈川県横浜市久保山墓地に改葬された[37][38]。その後、大磯旧吉田茂邸内の七賢堂に人物神として祀られている[39]

吉田の銅像は、「北の丸公園」、「高知龍馬空港」、「大磯城山公園」の3箇所に建てられている。

吉田が死去した当時、存命中の内閣総理大臣経験者としては最高齢(1953年の阿部信行没後自身が死去するまで)であった(最古参は東久邇宮稔彦王のまま)。


注釈

  1. ^ ただし、ジョン・ダワーは「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日横須賀に生れたといわれる。」と著書に記している[1]
  2. ^ 事務方の次官が「事務次官」と称されるのは1949年の改正国家行政組織法施行以降のことで、当時は単に「(外務)次官」と称していた。
  3. ^ ただし、大村立三は著書にて、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎谷正之を挙げている。また、奉天総領事・外務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は、幣原や重光と比較した場合にはアジア進出に対してより積極的であったとする見解をとっている[9]
  4. ^ 牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月家の縁で高鍋出身の海軍中将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だったと、吉田は自著に記している[13]
  5. ^ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、国葬当日のスポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した[34]
  6. ^ 国葬の様子について、読売新聞は「弔辞はことごとく型通りのものだった。喜楽を分けたはずの親しい人の弔辞も制限された。参列者も、各省ごとに、機械的に割り当てられ、人選された」「“国葬”というより、無感動な“官葬”という気がしてならなかった」と批判的に報じている[35][36]
  7. ^ 松平は元会津藩主京都守護職松平容保の六男で、長女の節子秩父宮の妃になっていた。
  8. ^ 鳩山はこの「追放が解除されたら……」を含めて4条件であったと主張していた[73][2]
  9. ^ これが最後の大命降下である。
  10. ^ 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)。
  11. ^ 翌1968年(昭和43年)9月に吉田邸が盗難に遭った際に失われ、発見されないまま1975年(昭和50年)9月に時効を迎えた[92]
  12. ^ 戸籍上の名は“コト”である。
  13. ^ 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが[101]、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。
  14. ^ 和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。

出典

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  14. ^ 吉田茂が固辞、幣原にお鉢が回る(昭和20年10月7日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p239
  15. ^ 実録首相列伝 2003, p. 99.
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