吉田茂 人物

吉田茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/16 23:26 UTC 版)

人物

1951年サンフランシスコ講和会議へ向かう機上にて白洲次郎(左)と

性格・特徴

癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。

耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという[43]

吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。

尊皇家・臣茂 

尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという[44]

1952年(昭和27年)11月の明仁親王立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「は総理大臣の臣だ」とやり返した。

住居

幣原内閣で外相に就任した際、東京・白金台旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。

佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという[45]

首相退陣後は神奈川県大磯町で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された[46]。同年10月23日には、河野太郎外相と訪日したミクロネシア連邦大統領との懇談・夕食会場として使われた[47]

趣味・嗜好

吉田は落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。

大の葉巻好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナを喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えた。

吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。

車における英国趣味

英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代、英国の権化のような高級車、ロールス・ロイスの中型モデル「25/30HP」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30HPロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホールしてまで使い続けた。

一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、個人的に西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている[48]。特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。

政治姿勢

駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。

首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。




注釈

  1. ^ ただし、ジョン・ダワーは「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日横須賀に生れたといわれる。」と著書に記している[1]
  2. ^ 事務方の次官が「事務次官」と称されるのは1949年の改正国家行政組織法施行以降のことで、当時は単に「(外務)次官」と称していた。
  3. ^ ただし、大村立三は著書の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎谷正之を挙げている。また、奉天総領事・外務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は、幣原や重光と比較した場合にはアジア進出に対してより積極的であったとする見解をとっている。[7]
  4. ^ 牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月家の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だったと、吉田は自著に記している。[9]
  5. ^ 吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、1926年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していたため(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。
  6. ^ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。
  7. ^ 松平は元会津藩主京都守護職松平容保の四男で、長女の節子秩父宮の妃になっていた。
  8. ^ 鳩山はこの「追放が解除されたら……」を含めて4条件であったと主張していた[49][2]
  9. ^ これが最後の「組閣の大命」である。
  10. ^ 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)。
  11. ^ 戸籍上の名は“コト”である。
  12. ^ 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが[62]、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。
  13. ^ 和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。

出典

  1. ^ a b c d ジョン・ダワー 1981a, p. 6.
  2. ^ a b c d e f g h i 実録首相列伝 2003, p. 98.
  3. ^ a b ジョン・ダワー 1981a, p. 5.
  4. ^ ジョン・ダワー 1981a, p. 9.
  5. ^ ジョン・ダワー 1981a, p. 11.
  6. ^ 有岡二郎 2001, p. 73-74.
  7. ^ 大村立三『日本の外交家 300人の人脈』
  8. ^ a b 有岡二郎 2001, p. 75.
  9. ^ 回想十年.
  10. ^ 実録首相列伝 2003, p. 99.
  11. ^ 実録首相列伝 2003, p. 99-100.
  12. ^ 実録首相列伝 2003, p. 100.
  13. ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
  14. ^ 実録首相列伝 2003, p. 103.
  15. ^ 史料にみる日本の近代: 乱闘国会と衆院事務総長の嘆き 国会図書館
  16. ^ 実録首相列伝 2003, p. 190.
  17. ^ アサヒグラフ 1967, p. 89.
  18. ^ 『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)
  19. ^ 『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面
  20. ^ 照沼好文 (1984年). “大磯旧吉田茂邸内社七賢堂について”. 神道研究紀要 (9). 
  21. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>労働関係調整法
  22. ^ a b 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>日本国憲法
  23. ^ 国立国会図書館>日本国憲法
  24. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>教育基本法
  25. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>教育基本法
  26. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>労働基準法
  27. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律
  28. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>刑事訴訟法
  29. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>労働組合法
  30. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>公職選挙法
  31. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>生活保護法
  32. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>住宅金融公庫法
  33. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>地方公務員法
  34. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>毒物及び劇物取締法
  35. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>結核予防法
  36. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>覚せい剤取締法の公布・施行
  37. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>破壊活動防止法
  38. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>麻薬及び向精神薬取締法
  39. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>厚生年金保険法
  40. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>警察法
  41. ^ 電子政府の総合窓口>法令データ提供システム>自衛隊法
  42. ^ 防衛省設置法
  43. ^ アサヒグラフ 1967, p. 73.
  44. ^ 原彬久 2005.
  45. ^ 佐藤寛子 1985, p. 133-134.
  46. ^ 大磯城山公園「旧吉田茂邸地区」が全面開放しました神奈川県庁ホームページ(2017年6月6日)
  47. ^ 河野外務大臣とクリスチャン・ミクロネシア連邦大統領との懇談及び夕食会外務省報道発表(2017年10月23日)
  48. ^ 吉田茂の愛車メルセデスベンツを特別展示 11月9日まで”. Response.. 2016年4月8日閲覧。
  49. ^ 実録首相列伝 2003, p. 109.
  50. ^ 麻生太郎 2007, p. 73.
  51. ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
  52. ^ 麻生太郎 2007, p. 73-74.
  53. ^ 戸川猪佐武『小説吉田茂』「あとがき」
  54. ^ 佐藤寛子 1985, p. 140-141.
  55. ^ アサヒグラフ 1967, p. 81.
  56. ^ 猪木正道『評伝吉田茂』
  57. ^ Nomination Database - ノーベル賞公式サイト
  58. ^ “吉田元首相をノーベル平和賞に 推薦状発見、65年に佐藤氏ら”. 47NEWS. (2014年9月13日). http://www.47news.jp/CN/201409/CN2014091301001177.html 2014年9月13日閲覧。 
  59. ^ “吉田茂氏、ノーベル賞候補に3度…最終候補にも”. 読売新聞. (2017年8月16日). http://www.yomiuri.co.jp/world/20170816-OYT1T50112.html 2017年8月17日閲覧。 
  60. ^ 吉武信彦「ノーベル賞の国際政治学―ノーベル平和賞と日本:1960年代前半の日本人候補― (PDF) 」『地域政策研究』第17巻2号、高崎経済大学、pp.1 - 23
  61. ^ 吉武信彦「ノーベル賞の国際政治学――ノーベル平和賞と日本:吉田茂元首相の推薦をめぐる1966年の秘密工作―― (PDF) 」高崎経済大学地域政策学会、2016年
  62. ^ a b 佐藤寛子 1985, p. 134-135.







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