じんぶん‐しゅぎ【人文主義】
じんぶんしゅぎ 【人文主義】
ヒューマニズム
人文主義
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14世紀半ばあたり、トスカーナ地方アレッツオ出身のフランチェスコ・ペトラルカは、古代の文献の収集及び研究に一生を捧げた。当時崩れていたラテン語文法を整備したりと人文主義者の祖として重要な働きをした人物である。また研究とは別に自らも詩を創り、トスカーナ方言で美人ラウラを想うソネット集『カンツォニエーレ』を著す。この抒情詩集はソネットという形式の完成形とされ、ルネサンス期ヨーロッパの文学的な流れを決定づけた傑作である。他に叙事詩として『凱旋』『アフリカ』などがある。 ほぼ同時期にフィレンツェ出身のジョバンニ・ボッカッチョは、ペストの被害を避けてきた紳士淑女に100の話を語らせる短編集『デカメロン』を著した。この作品は騎士道やキリスト教的価値観を皮肉り、時には痛罵したような話もあり、あからさまな性愛の話もある。しかしこれまでの道徳観から離れて人間というものを直視したという点、最もルネサンス的な文学といえるかもしれない。ペトラルカの親友でもあり、ダンテの最も早い時期の崇拝者でもあった。ただ喜劇(commedia)とされていたものに、神聖な(divina)を付け加えて『神曲』としたのは彼であり、フィレンツェで『神曲』の講義をしたりしている。
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人文主義
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無宗教の人々の一部は、非宗教的な人々の世界観共同体であるバイエルン人文主義連合を形成している。この連合体は、その世界観に基づく活動の他に、多くの幼稚園や保育園、託児所および教育改革論に基づく人文主義基礎課程学校を運営している。1933年に国家社会主義者によって壊滅させられた世俗の学校運動は、連邦初のフュルトの世俗人文主義基礎課程学校により復活した。
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人文主義
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1490年から1510年にかけてアルザスで成立した匿名(高地ラインの革命家)の『百章からなる本』ではアダムはドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した。背景には、ブルターニュ公国を巡るハプスブルク家マクシミリアンとフランス王シャルル8世の対立があり、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどのユマニストもフランスを攻撃した。 15世紀末、ドイツは経済的に繁栄し、バイエルン公国のアウクスブルクでは鉱山・金融業の富豪フッガー家、金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト=ユーデ(ユダヤ人のようなキリスト教徒)」と呼んだ。セバスティアン・ブラントは『阿呆船』(1494年)で「ユダヤの高利貸しはまだよいが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト=ユーデども」と皮肉った。 1508年の『ユダヤ人の鑑』で改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンがユダヤ人の偏屈さの原因はタルムードにあると告発した。プフェファーコルンによる提案で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は1509年の勅令でタルムード廃棄を命じた。ユダヤ人から請願されたマインツ大司教ゲンミンゲンの提案で、プフェファーコルンらによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、委員にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンなどが就任した。ロイヒリンがタルムードやカバラーを擁護すると、1511年に両者は論争を開始し、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持するなど論争は国際的なものとなった。 ただし、ロイヒリン側も反ユダヤ的な思想を持っていた。ロイヒリンは論争の直前に書いた1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜し、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼び、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教していたし、論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」と述べている。また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を批判した人文主義者のフッテンもプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで「彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない」と批判し、同じくエラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した。 アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌスは「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない」と述べた。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテスはユダヤ人は「人類の社会を侵し、混乱に招き入れる」と述べた。 ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウスは高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で「異国の民が、われわれの土地で権勢を振るうなどということが許されてよいものだろうか」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルクは「ユダヤ人は、みずから手を汚しての労働を欲しない」「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない」と批判した。 一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリングは「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部のキリスト教徒が手を染めている高利貸しなのである」と、キリスト教徒の高利貸しのことも非難した。 1516年 - 教皇国家アンコーナでユダヤ人に商業特権を与えた。 1516年 - ヴェネツィアにユダヤ教徒強制居留地(「ゲットー」)が設置される。 ユダヤ人の唱道者ロースハイムのヨーゼルは1520年以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王のカール5世(在位:1519年 - 1556年)に寵遇され「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾をほどこさないこと、キリスト教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業モラルを遵守するよう要求した。 ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った。アウクスブルク国会でヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の一つとするなどその後も影響力を持った。
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