タルムード調査委員会
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「ヨハンネス・プフェファーコルン」の記事における「タルムード調査委員会」の解説
ユダヤ人たちは、マインツ大主教ウリエル・フォン・ゲンミンゲン(Uriel von Gemmingen)に助けを求め、大主教を通じて皇帝にプフェファーコルンによる告発を調査するタルムード調査委員会を設立するよう求めた。 1509年11月10日の皇帝勅令は、ゲンミンゲン大主教にタルムード調査委員会を設立する権限を与え、マインツ、ケルン、エアフルト、ハイデルベルクの各大学、及びケルンの異端審問官ヤコブ・ヴァン・フーグストラーテン(Jacob van Hoogstraaten)、元ユダヤ教ラビからキリスト教へ改宗したヴィクトル・フォン・カルベン(Victor von Carben)司祭、ヘブライ語学者ヨハネス・ロイヒリンからの意見を確実にするよう命じた プフェファーコルンは自分の行動を正当化するため、また皇帝の良い意向を取り付けるためにIn Lob und Eer dem allerdurchleuchtigsten grossmechtigsten Fürsten und Herrn Maximilian (1510)を書いた。また1510年4月にプフェファーコルンはフランクフルトでマインツの有権者とHermann Ortlieb教授と再び没収を行った。 異端審問官フーグストラーテン及びマインツ大学、ケルン大学は1510年10月にユダヤ書籍没収を決定した。 一方、ヘブライ語学者ヨハネス・ロイヒリンは明らかにキリスト教を侮辱しているNizachonやToldoth Jeschuなどの書籍のみを廃棄すべきだと主張した。ロイヒリンはユダヤ人を擁護して、1510年5月23日に皇帝は昨年の焚書勅令を停止し、6月6日にユダヤ人に書籍が返還されたと記録している。
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