タルマ・ラージャの治世と藩王国化
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「トラヴァンコール王国」の記事における「タルマ・ラージャの治世と藩王国化」の解説
1758年7月7日、マールターンダ・ヴァルマは死に、息子の ダルマ・ラージャ(在位1758 - 1798)が後を継いだ。 ダルマ・ラージャの治世は長く、内政面では、宰相ケーシャヴァ・ピッラの活躍により、アーラップラ(アレッピーとも)のジャングルが海外交易港へと開発され、マラヤーラム語の復興も行われ、文学、舞踊、演劇、絵画、建築も栄え、パドマナーバプラムの宮廷を彩った。 また、コーチン王国ともよく争い、1756年から1757年にかけては大規模な戦闘も起き(コーチン・トラヴァンコール戦争)、この争いは1761年12月23日に和平条約が締結されるまで続いた。 しかし、1767年以降、マイソール王国のハイダル・アリーのケーララ侵略があり、トラヴァンコール王国はマイソール王国の侵略を受けることなり、1774年にはトラヴァンコール王国は家臣として貢ぐことを迫られたが、カルナータカ地方政権の家臣であることを理由に拒否した。 その息子ティプー・スルタン もケーララ地方を侵略し、1789年12月の侵攻の際、ダルマ・ラージャはイギリスに援助を求め、翌1790年初頭から第3次マイソール戦争が勃発した。 その結果、トラヴァンコール王国は、マイソール戦争でイギリスに味方し、第3次マイソール戦争終結後、1795年には軍事保護条約を結ばされ、イギリスに従属する藩王国の地位に落とされた。 なお、同年にダルマ・ラージャは、首都をパドマナーバプラムからトリヴァンドラムへと遷都し、1798年2月17日に死亡した。
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