音楽への影響
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詳細は「キリスト教音楽」を参照 正教会聖歌作曲家の一覧はCategory:正教会聖歌作曲家を参照 グレゴリオ聖歌の楽譜の一例。『リベル・ウズアリス』キリエ・エレイソン(オルビス・ファクトール)の冒頭部のネウマ譜 キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。 教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる。 作曲家で言えば、16世紀に対位法・ポリフォニーにおいてイタリアのパレストリーナやスペインのビクトリアといった大家が現れた。しかしバッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲やレクイエムはベルリオーズやブルックナーをはじめとした数々の作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。また器楽曲では、西方教会ではパイプオルガンが好んで用いられ、各地域で優れた大型のオルガンへの需要を生み出した。ヨーロッパでは16世紀、17世紀に建造されたオルガンが補修を受けながら、現在も使われていることが多い。 また20世紀に入るとアメリカのアフリカ系市民の間で歌われていた賛美歌(ゴスペル)が、レイ・チャールズなどの手によってポップ・ミュージックに導入された。一方で、古楽への一般的な関心の高まりをも反映して、グレゴリオ聖歌などの古い宗教曲が意識的に聴かれるようになり、教会旋法の要素を取り入れる作曲家などもみられる。 一方、器楽の使用を原則として禁じた正教会においては、東ローマ帝国地域でビザンティン聖歌が独自の発展を遂げた。正教が伝播したロシアでは、ビザンティン聖歌にロシア固有の要素を取り入れたズナメニ聖歌といわれる無伴奏声楽曲が発達した。ビザンティン聖歌もズナメニ聖歌も四線譜もしくは五線譜を用いず、それぞれ「ネウマ」と「クリュキー」と呼ばれる記譜法を保持していた。 18世紀以降になると西方との交流によって、イタリア的要素を取り入れた宗教曲が作られ、19世紀初頭にはロシアでボルトニャンスキーが活躍。チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフといった作曲家達を生み出す土壌となった。正教会聖歌ではラフマニノフの『徹夜禱』が有名であり、聖歌を専門にした作曲家ではアルハンゲルスキーが著名であるが、ブルガリアのフリストフやセルビアのフリスティッチ、エストニアのペルトも正教会聖歌を作曲するなど、その発展はロシアに限定されず東欧全域に及んでいる。また、西欧的な要素を取り入れつつも新たな伝統復興を模索する動きが19世紀後半から正教会では行われていたが、共産主義政権の弾圧による研究の中断があったものの、共産主義政権の崩壊後にそうした復興運動は再活性化を見せている。
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音楽への影響
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「フリードリヒ・リュッケルト」の記事における「音楽への影響」の解説
リュッケルトの詩の数々は多くの作曲家を魅了し、リート史上最も作曲家から愛された詩人の一人である。最初に作曲した有名な作曲家はフランツ・シューベルトで、『君は憩い』、『僕の挨拶を』、『愛と美がここにあったことを』など5曲を作曲した。シューベルトがあと数年生きていたらリュッケルト歌曲の世界はもっと広がっていただろうと惜しまれている。 ロベルト・シューマンは、シューマンの「歌の年」と言われる1840年に妻クララへの思いを込めるようにハイネと同様、リュッケルトの詩による歌曲を多数作曲している。『献呈』、歌曲集『愛の春』、歌曲集『ミンネの歌』など。 グスタフ・マーラーによる『リュッケルトの詩による五つの歌曲』と歌曲集『亡き子をしのぶ歌』はリュッケルト歌曲の代表作の一つとして知られている。 他にもカール・レーヴェ、ヨハネス・ブラームス、フランツ・リスト、フーゴー・ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、ハンス・プフィッツナー、マックス・レーガーなど、多くの作曲家に作曲された。
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音楽への影響
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遅くとも1970年代から、デヴィッド・ボウイはいくつかの歌詞をカットアップで作っていた。それはカート・コバーンの作詞にも影響を与えた。 サンプリングをベースにした音楽ジャンル、たとえばヒップホップや電子音楽などもカットアップと似た技法を使っている。DJたちは混ぜ合わせて新しい曲を作るため、曖昧で面白いブレイクビーツ、ヴォーカルなどの断片を集めるため時間をかけてレコードを「ディギング」する(漁る)。ミュジーク・コンクレートもサウンドのカッティング、再編曲、再編集といった技法を使っている。 作家のジェフ・ヌーンの類似のリミックス技法はダブをベースにしたものである。「Cobralingus」システムを使ったその技法は、テキストをバラバラにし、個々の語の綴りを変え、混ぜ合わせ、物語にする。 レディオヘッドのトム・ヨークは、ツァラのダダイスムの例まで戻って、アルバム『Kid A』(2000年)にカットアップに似た技法を応用した。バンドがリハーサルをしている時に、一行書き、それを帽子に入れ、ランダムに抜き出した。 映画『DOWNTOWN 81(英語版)』の中では、タキシードムーンがバラバラに切った新聞記事のフレーズを読む類似した技法のパフォーマンスを行っている。 マッシュアップ(バスタードポップ)のオンライン・サブカルチャーは、あるミュージシャンのインストゥルメンタル・トラックと別のミュージシャンのヴォーカル・トラックを混ぜ合わせるというフォールドイン技法に似た技法を使っている。 バロウズは1971年にジェネシス・P・オリッジに「altering reality」の方法としてカットアップ技法を伝授した。バロウズの説明は、すべては記録されていて、もし記録されたものならば編集できる、というものだった(P-Orridge、2003)。P・オリッジはカットアップを、美術や音楽、さらに人生の方法として哲学として長く使った。 アメリカのバンド、インターポールは『ハインリッヒ・マヌーヴァー(英語版)』(アルバム『アワー・ラヴ・トゥ・アドマイヤー』収録)のビデオの中でカットアップと似た技法を使っている。スローモーションで歩いている女性がバスに轢かれる時、周りにいた大勢の人々は事故を異なる時間で目撃している。一例を挙げれば、後ろから女性に警告しようと走ってくる男性は、女性が轢かれたと思って立ち止まるが、当の女性はまだ歩いている途中である。 先述されたバロウズやカート・コバーンに強い影響を受けたART-SCHOOLの木下理樹が書く詞もカットアップ技法が大きく用いられている。特に彼らの初期の作品においてその傾向は顕著であり、全てカットアップ技法を用いた歌詞で曲が構成されているものもある。 アット・ザ・ドライヴイン、マーズ・ヴォルタのギタリスト、オマー・ロドリゲス・ロペスは、自身やメンバーに演奏させたフレーズをカットアップで繋ぎ合わせる手法を用いて楽曲を完成させる方式を採用している。そのため、他のメンバーはレコーディングの時点で自身のプレイがどのような楽曲になるのか分からないまま演奏を強いられる。
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