陸軍特別攻撃隊の開始
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雷撃や跳飛爆撃の研究や訓練は続けていたものの、陸軍中央航空関係者の間で 圧倒的に優勢な敵航空戦力に対し、尋常一様な方策では対抗できないとの意見が主流を占めつつあり、1944年3月には艦船体当たりを主とした航空特攻戦法の検討が開始され、春には機材、研究にも着手した。特攻兵器の研究は第3陸軍航空技術研究所所長正木博少将が進めており、正木は日本中の権威と呼ばれる学者を集めて研究を進めたが、中でも東京帝国大学建築科浜田稔教授は「甲板にぶつかってこわれてしまう陸用爆弾でも、飛行機が爆弾をつけたまま体当たりすれば、爆弾自体の爆発力は弱くとも、飛行機自体の自重で三層の甲板を貫くことは可能」とする理論を公表した。各界の権威の助言によって特攻を推し進める正木に対して、鉾田陸軍飛行学校校長藤塚止戈夫中将(当時)、教導飛行研究部福島大尉らは「1、急降下爆撃の場合は、敵戦闘機や防御砲火による損害が多く、接敵占位するまでに困難が多い。しかし、一旦目標をとらえて、急降下にはいれば、爆撃の目的を達する率が多い」ところが体当たり攻撃のばあいは「1、武装、戦闘行動で劣り、結果として不利である」「1、体当たり攻撃の最大の欠点は落速の不足にある。爆弾の落速に比較すれば、飛行機はその二分の一程度であるから装甲板を貫通することができない。従って体当たり攻撃では、一般として撃沈の可能性はない」という反論の報告書を作成し、体当たり攻撃導入に反対している。 1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長東條英機大将は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた。後宮を補佐するため、次長には陸軍航空の第一人者となっていた菅原道大中将が就任した。 後宮が航空総監になった直後の4月に、後宮は陸軍航空本部の幕僚を集めて会議を開催した。その席の冒頭で後宮が「現況を打開するため、必殺体当たり部隊を編成する」旨の発言を行い、幕僚らに意見を求めた。このときは主に若手の参謀から強硬な反対論が出たため、後宮の命令で、一旦は白紙撤回としこの会議自体をなかったこととした。しかし、東條や後宮が必殺体当たり部隊を諦めることはなく、4月17日、東條が日本本土への空襲が懸念されていた超重爆撃機B-29に対し「これに対して十分なる対策を講じ、敵の出鼻を叩くため一機対一機の体当たりで行き、一機も撃ち洩らさぬ決意でやれ。海軍はすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している。」と述べて対空特攻の体当たり部隊編成を示唆している。 特攻開始に向けて準備が進んでいた5月27日、ニューギニアを飛び石作戦で攻略してきたダグラス・マッカーサー元帥率いる連合軍南西太平洋方面軍は、ニューギニア攻略の仕上げと、マッカーサーが強いこだわりを持つフィリピン奪還の準備として、ビアク島に来襲し大規模な上陸作戦が行われた(ビアク島の戦い)。ニューギニア西端のエフマン飛行場(英語版)に配備されていた飛行第5戦隊長の高田勝重少佐は、出撃命令を待っていたがなかなかこなかったので、二式複座戦闘機「屠龍」4機での自爆攻撃を決断し、「屠龍」4機に高田以下8名の搭乗員が乗り込み出撃した。4機は、連合軍上陸部隊の歩兵の上陸が完了し、「LST-1級戦車揚陸艦」が海岸にのし上げて戦車の揚陸を開始した頃に、超低空飛行で艦隊に接近してきた。各機は海岸で揚陸中の「LST」に爆弾を投下、うち1発が命中したが不発弾であったため損害はなかった。そこに船団を護衛していた「P-47」が現れ、たちまち2機の「屠龍」を撃墜し高田機も被弾した。残った1機が上陸支援を行う第77任務部隊司令官ウィリアム・フェクテラー少将の旗艦である駆逐艦サンプソン(英語版)に突入しようとしたが、被弾のためサンプソンへの突入はわずかに逸れ、付近の駆潜艇「SC-699」に側面の水面付近に命中した。機体の一部が海面に接触してからの激突で速度が落ちていたことと、爆弾は投下済みであったため、「SC-699」の木製の船体にエンジンを食い込ませて、船内を多少破壊したものの沈没には至らず、戦死者も2名に止まった。1機残された高田は、伝声管で同乗していた本宮利雄曹長に「只今より自爆するから基地に打電せよ」と命じたのち「天皇陛下万歳」と叫んで拳銃で自決した。高田機はそのまま墜落したが、本宮は海中に投げ出されて一命を取り留めている。この日の戦果は実際には駆潜艇1隻撃破であったが、南方軍は駆逐艦2隻撃沈、2隻撃破の大戦果を挙げたとの過大な戦果発表を行い、陸軍内部の特攻推進派に勢いをつけることとなった。この後、前線の航空部隊では、艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で信管を外し体当たりできるように現地で改修することもあった マリアナ沖海戦の敗北後開催された1944年6月25日の元帥会議で、伏見宮博恭王が「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言し、陸軍の参謀本部総長東條と海軍の軍令部総長嶋田繁太郎は2〜3考案中であると答えているが、この会議で実質的には特攻を兵器として採用することが日本軍として組織決定された。 サイパンの戦いで守備隊玉砕の悲報が報じられた1944年7月7日、人目のある官公庁街を避けて、市ヶ谷河田町の個人邸宅を借り「航空寮」と名付けられた秘密の会議室で、大本営陸軍部が、陸軍航空本部や陸軍航空技術研究所などの陸軍航空関係者首脳を招集しての会議が開催された。のちにこの会議は陸軍特攻の大きな転機となったので「市ヶ谷会議」とも呼ばれるが、闊達な意見交換ができるようにと参謀などの実務の責任者が呼ばれて、後宮や菅原などの組織のトップは敢て参加していない。その会議の冒頭で大本営陸軍部の参謀が「わが海軍航空兵力の主力は、すでに全滅し、さらにサイパン島を失陥した現在、敵の海上兵力を撃滅するには、もはや尋常一様の攻撃手段では、とうてい成功する道はなくなった。」「いまや体当たり攻撃により、1機をもって1艦を撃沈する、特別攻撃を採用するほかないのであります」と特別攻撃隊編成を迫った。そこで陸軍航空審査部員の酒本秀夫技術少佐など技術者から「飛行機が近代科学の結晶であり、この飛行機で体当たりすることは、技術進歩に逆行する」「各部門ごとに命中精度の向上、射距離の延伸、性能の向上などに日夜神経をすり減らしているのに、何のために心血を注いできたのか」「空気力学的に考えても、操縦上の見地から言っても非常な練度を必要とするためなかなか容易には体当たりできるものではない」などの反対意見も出されたが、既に大本営陸軍部内では特攻の開始は決まっており、この会議は陸軍航空の諸機関を集めて特攻開始を承諾させるという儀式に過ぎなかった。陸軍の特攻開始の方針がいつ決定したのかは定かではないが、3月28日航空総監部次長に就任した菅原は「就任した3月の時点ですでに特攻作戦については実施を前提とした議論がされていた」と証言している。 航空特攻についての研究を命じられていた第3陸軍航空技術研究所所長の正木博は、「市ヶ谷会議」後の1944年7月11日、「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」として対艦船特攻の6つの方法を提案した。その6つの方法のなかで5番目にあげられた「1噸爆弾を胴体下に装備し、上甲板又は舷側に激突するか、水中爆発を期する方法。この方法は弱艦船を撃沈でき、強艦船に対してもかなりの効果が期待できる」という提案が即刻対応可能ということになり、重量は1トンであっても陸軍の破甲爆弾では貫通力不足であるため、海軍から800kg通常爆弾の支給を受けて、「九九式双発軽爆撃機」に同爆弾を1発装備して特攻機とすることとした。同時に四式重爆撃機「飛龍」も特攻機にすることに決定し、800kg爆弾2発を搭載することとした。7月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた。主な改修点としては、爆弾や爆薬をもっと効率的に装備できるようにするなどの特攻機に不可欠なものの他に、片道なのだからとして一部を簡略化する改修も行われ、ジュラルミンの不足から素材を一部ブリキに変更するとか、配管を簡略化し、エンジンより燃料タンクに直結させることによって燃料コックを省略するとか、操縦席計器は羅針儀、高度計、速度計、回転計のみに限定するといったように、爆弾を積んで敵艦に体当たりするに必要な最低限の軽装備が徹底された。 機首には3本の細長い槍のような管を設置したが、これは搭載爆弾の誘爆装置(起爆管)であり、特攻機が敵艦に突入すると、この起爆管が作動し爆弾が機体より離れて敵艦の喫水線下で炸裂するという仕組みであった。この仕組みでは体当たりをしない限り爆弾を投下することができないため、のちに緊急避難時などに投下できるような改修が加えられることとなった。鉾田で跳飛爆撃の研究をしていた岩本が演習帰りに立川飛行場に立ち寄ると、そこに3本の細長い槍のような管が突き出た異様な「九九式双発軽爆撃機」が格納庫に駐機してあるのを見かけている。岩本はここで「市ヶ谷会議」で酒本とともに特攻開始に反対した竹下福寿少佐より、この異様な「九九式双発軽爆撃機」が体当たり用の飛行機であり、細長い槍は爆弾の起爆管であることを聞かされて驚いている。しかし、同じ鉾田の福島は、当初は正木が集めた学者に反論するなど、特攻に反対であったのに、この頃には特攻容認に転じており、上記の通り倉澤とともに特攻戦術の意見書を参謀本部に提出している。
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