陸軍歩兵将校となる
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番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、東京府城北尋常中学校(後の東京府立第四中学校、現・東京都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。 1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。 1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。 1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東條のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった。同年に長男の英隆が誕生。 1912年(大正元年)に陸大に入学。 1913年(大正2年)に父の英教が死去。 1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。 1915年(大正4年)に陸大を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。その後、陸軍省高級副官和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官となる。陸軍の諸法規等を記した厚冊『陸軍成規類聚』をすべて暗記したという有名なエピソードはこの頃の話である。「努力即権威」が座右の銘だった東條らしい逸話である。 1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。 1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという。 1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。 張作霖爆殺事件(1928年6月4日)の3か月前(3月1日)の木曜会の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾、鈴木貞一、根本博や東條のボスであった永田鉄山、岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章、田中新一らも加わり一夕会が結成されている。
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