諸本と流布
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写本は、『国書総目録 第3巻』に(1)国会(2)内閣(3)宮書(嘉永3写6冊)(4)同(古心堂叢書85-89)(5)京大(6)教大(天保10写)(7)(8)早大(2部)(巻4‐7欠、2冊)(9)東北大狩野(10)秋田(11)都史料(12)同(抄、雑纂の内)(13)刈谷(14)天理(江戸中期写)の14種があり、この他に日本古典籍総合目録データベースに(15)茨城大菅(7冊)(16)都公文書(11,12と別本)(17)大洲図矢野(天保9写)(18)同 の4種がある(冊数10冊は記載を省略。計18種)。 文久3年(1863年)の斎藤月岑『睡余觚操』には、『見聞集』は何処かの家の秘蔵書であったものが、天保の頃(1831-1845)から世の中に流布した、とある。『近古文芸温知叢書』の小宮山綏介の解説には、鈴木白藤の家記(『夢蕉』)からの引用として、文化13年(1816年)に近藤正斎と鈴木白藤が「三浦氏」から『見聞集』を含む秘書数種を借り出して写したことがみえ、また『仮名草子集成』翻刻の底本となっている秋田県立図書館本(下記(10))の文政3年(1820年)書写時の跋に、『見聞集』は当時御鑓奉行だった三浦和泉(守)家の秘書だったものを鈴木分左衛門(椿亭)が借り出して写した旨がみえるため、写本の流布元は浄心の子孫の家だったことが確からしい。 ただし、戸田茂睡の『むらさきの一もと』が『見聞集』を引用していることが指摘されており、また浄心の子孫にあたる安祥院の歌集『心の月』の書名について、『見聞集』に仏典からの引用がみえることなど、流布したとされる時期より前に、内々に知人や関係者に見せていたと思われる節もある。 『見聞集』の諸本 (1) 国立国会図書館本 題箋・印記「東京図書館」 (1)1・4・6巻 (2)2・5・7・9巻 (3)3・8・10巻で題字「見聞集」の記し方や書体が異なり、3人で写したもよう。 巻10の大尾の前に「右見聞集十巻三浦浄心〔伊勢町に住居せし事/五の巻に見ゆ〕が述作にして/江戸の事跡を記しゝ書のはじめなり/文久二年壬戌十一月忙中流覧一校を遂了/巻中誤写少なからず他日閑を得ば再訂すべし/江戸書儈 脅肩病夫五一翁門人/活東子題」とあり、「活東子云」で始まる朱書の頭注がある。文久2年(1862年)の岩本活東子写本の写し。 近藤瓶城『改定史籍集覧 第10集』の「見聞集」跋に、「明治17年12月同34年(1901年)5月以東京帝国図書館本再校了」とあり、1901年に『改定史籍集覧』の翻刻の再校正に用いられている(従って『史籍集覧』と『改定史籍集覧』は全く同じではないはず)。 巻10(12)に巻5(2)が再掲されており、以下巻10(13),10(14)が後ズレしている、という錯簡がある((7)早大(5冊10巻)本と共通)。鈴木棠三校注本の「本巻使用の底本について」に、「国会図書館本は、史籍集覧の底本として使用された本であるが、この本は巻五、日本橋市をなす事及びその次条にわたって大錯簡があり、これはその親本における錯簡をそのまま書写した結果であると思われる」とあり、上記の錯簡のことに言及しているようである。なお、『史籍集覧』『改定史籍集覧』の底本は、同書の跋によれば(2)内閣文庫(昌平坂学問所旧蔵)本であって、(1)国会図書館本ではない。 (2) 国立公文書館内閣文庫本 昌平坂学問所旧蔵本 『史籍集覧』『改定史籍集覧』の翻刻の底本。 序跋・識語なし 昌平坂学問所の編纂書のうち、序により文化7年(1810年)から編纂された『新編武蔵風土記稿』に『見聞集』の内容が引用されており、また序により文政丙戌(文政9年・1826年)頃から再編纂して成立した『記録解題』に『見聞集』の解題を載せていることから、この頃までに同学問所では『見聞集』の写本が作成されていたとみられる(現存の写本と同じ本かは不明)。 (3) 宮内庁書陵部本(嘉永3写6冊) 印記「不存蔵書」(鈴木真年蔵書) 印記「三枝文庫本」(三枝博音蔵書) 冒頭に「見聞集作者略伝」と題して馬場文耕『近代公実厳秘録』からの写しを載せている。岡田哲(校訂)『馬場文耕全集』の翻刻と対照するとかなり異同があり、太田南畝が『一話一言』で言及している内容は、『馬場文耕全集』の翻刻よりも、この写しに近い。 朱書で巻3(11)「伊豆国蛭嶋一見之事〔付〕石橋山合戦の事」が『見聞軍抄』巻1にもみえるとの指摘あり。 大尾の識語「右三浦見聞集十巻者於芙蓉店/求之尤可珍重者也不可出[門田]外/嘉永三季七月十七日 [花押(「万」のような形)]」とあって、嘉永3年(1850年)は所蔵者が書肆で購入した日付で、書写の時期はそれより前。川瀬一馬『古辞書の研究』(大日本雄弁会講談社、1955年、99頁)に『和名抄』の写本の巻末の識語として「右五巻者於芙蓉店求之不可出[門田]外者也 嘉永二年(1849)四月十二日穂積重年」とあることが紹介されている。よく似た内容なので、識語を付した所蔵者は穂積重年=鈴木真年で、別人の写本を嘉永3年に「芙蓉店」で購入したものであろう。 (4) 宮内庁書陵部本(古心堂叢書85‐89) 5冊10巻 「侗庵題簽」 印記「卍余巻/楼章」(古賀侗庵蔵書) 鈴木棠三校注本(『日本庶民生活史料集成』)の底本。同書の「本巻使用の底本について」に「幕府の儒官であった古賀侗庵(精里の三子)の旧蔵にかかる古心堂叢書中の1冊である」とあり。 古賀侗庵は古賀精里の子で、鈴木白藤の女婿。白藤は文化13年(1816年)に『見聞集』を書写している。 古賀精里は文化8年(1811)に鈴木椿亭とともに対馬へ赴任したことがあり、椿亭も文政3年(1820年)頃に『見聞集』を写しているので((10)秋田本)、侗庵が椿亭の写本を写したとも考えられる。 巻3と巻5のみ目録題に「見聞集〔一名江戸物語〕」と別題が付されている。(18)大洲図矢野本も同様で、(18)は識語から白藤本の写本と考えられるため、古心堂叢書本も白藤本系と考えられる。 第2-5冊の末に「癸酉十月」に「増」が読んだこと、第5冊末に「己卯十月」に再読したことが見える。それぞれ文化10・文政2年(1813年・1819年)または明治6・12年(1873年・1879年)。 朱書に巻4(16)「ゆなふろ繁昌の事」が『そぞろ物語』にみえること、巻6(11)「鎌倉坊主むかし物語の事」が『見聞軍抄』巻5と同内容で、『東鑑』からの引用であるとの指摘あり。 (5) 京都大学本 未詳。 「京都大学蔵書検索」によれば識語「牡丹楼毛利姓蔵」(各冊末尾)、印記「淀府内帑圖書之章」「八文字屋藏書之印」 (6) 筑波大学(旧東京教育大学)図書館本(天保10写) 未詳。 鈴木棠三校注本の「本巻使用の底本について」によると、奥に「天保10年(1839年)正月中旬以鈴木君蔵本対校一過訖」と識された本(同書の底本ではない)。 同書で鈴木棠三は、「書写の過程において、漢学の素養ある人物により相当程度加筆整備されたらしいことが想像される。たとえば他本では漢語を仮名書にしてある部分を、この本ではかなり漢字に直してあるが、これは恐らく仮名書の方が原形だったらしく思われる。また記述について筆者の考証を頭注として記入したものが処々に見られることも他本にはない」と評価している。「鈴木君」は鈴木白藤(鈴木恭、1767-1851)か鈴木椿亭(鈴木文、1765-1829)または別の鈴木さんの可能性があり、年代から本人であれば白藤の本と校合した可能性が高い(底本は別の本)。 (7) 早大(5冊10巻)本 大尾に文久2年(1862)(岩本)活東子の識語あり。 朱書に「活東子云」で始まるものが含まれているので、岩本活東子本を写したもよう。 巻10(12)に巻5(2)が再掲されており、以下巻10(13),10(14)が後ズレしている((1)国会図書館本と共通)。 (8) 早大(巻4‐7欠、2冊)本 識語なし 巻1に「文鳳堂印」の印影あり。 内容に省略箇所が多い。抄本。 (9) 東北大狩野文庫本 未詳。 (10) 秋田県立図書館本 『仮名草子集成』の底本。同書翻刻の跋文に「見聞集十冊、今時御鑓奉行三浦和泉か家秘にて、甚他見を禁る由、御徒目付鈴木分左衛門かいかにして借出せしやらむ、同好の者なれは、潜に看よとて貸こせしまゝ、筆耕者にうつさせ畢 文政庚辰(文政3・1820)7月」とある。三浦義和(和泉守)は文政3年から御鑓奉行となっている(『柳営補任』)。『見聞集』が三浦義和の家に伝わっていたことを裏付ける記述。 秘書を借り出した「御徒目付鈴木分左衛門」は鈴木椿亭(文左衛門、鈴木文)とみられる。 (11) 東京都公文書館本(CO-001~CO-010) 巻1 註「朱文字之箇所は原本を対照の際/書□不足の□□を補足せしもの也/□□□□して返読すべきものとす」 巻10 跋「右見聞集十巻三浦浄心〔伊勢町に住居せし事/五の巻に見ゆ〕が述作にして江戸の事跡を記しゝ書のはじめなり/文久二年〔壬戌〕十一月忙中流覧一校を遂了 巻中誤写少なからず他日閑を得ば再訂すべし/江戸書儈 脅肩病夫五一翁門人/活東子題」 活東子の跋の後に、「大尾の後書写(原本より)」とあって、「三浦浄心見聞集は本と三十二冊ありしに後人/遊女歌舞伎の事に係るものを抄録してそゞろ物語と名/つけて小田原の事に係るものを節録して北条五代記と/名づけ(…)他の同名の書と混し/易けれは近来表題に慶長の二字を加へて之を/分つに至れり今亦従之と云/(…)明治十七年十二月五日出版御届/著者故人 三浦常心/出版人 東京府平民 近藤瓶城/深川区富岡門前町/七拾番地」とある。これは(改定前の)『史籍集覧 慶長見聞集』の跋を書写したもの。 (12) 東京都公文書館本(抄、雑纂の内、CK-745) 外題「雑纂/慶長見聞集抄/慶長年間江戸図考」 『見聞集』本文の抜録 跋なし (13) 刈谷市図書館村上文庫本 未詳 (14) 天理図書館本(江戸中期写) 未詳 印記「池南文庫」(不明) 印記「祐田氏蔵書」(祐田善雄蔵書) 「祐田氏蔵書」 天理図書館の蔵書検索の一般注記によると第3冊末に「右慶長見聞集以豊芥子藏本抄冩之 癸夘閏九月」とあるといい、1843年(天保14年・癸卯)頃に石塚豊芥子(1799-1862)蔵本を写した抄本とみられる。 (15) 茨城大菅(7冊) 未詳 (16) 東京都公文書館本(11,12と別本、CO-035~CO-044) 表紙の印記「東京市役所文庫」 1丁オの印記「市史編纂用典籍記」 跋「右見聞集十巻三浦浄心〔伊勢町に住居せし事/五の巻に見ゆ〕が述作にして江戸の事跡を記しゝ書のはじめなり/文久二年〔壬戌〕十一月忙中流覧一校を遂了 巻中誤写少なからず他日閑を得ば再訂すべし/江戸書儈 脅肩病夫五一翁門人/活東子題」 跋の後に「大尾の後書」とあって「三浦浄心見聞集は本と三十二冊ありしに後人/遊女歌舞伎の事に係るものを抄録してそゞろ物語と名/つけ小田原の事に係るものを節録して北条五代記と/名づけ(…)他の同名の書と混し/易けれは近来表題に慶長の二字を加へて之を/分つに至れり今亦従之と云/(…)明治十七年十二月五日出版御届/著者故人 三浦常心/出版人 東京府平民 近藤瓶城」とあり、ほぼ同文が2つ付いている。(11)と同じく、(改定前の)『史籍集覧 慶長見聞集』の跋の書写のもよう。刊記の近藤の住所の記載が無いものと有るものが付いている。 (17) 大洲図矢野(天保9写) 未詳。下記(18)と同系か。 (18) 大洲図矢野(天保9写) 印記「矢野氏記」(矢野玄道蔵書) 印記「笨斎長田守文蔵書」 跋「この書は三浦なにがしの伝本なり/白藤鈴木翁のもたるゝをかりえて/人にあつらへてうつしをへるなり時は/天保九年(1838)□□(戊戌)かなつ/笨斎」 印記・跋により長田笨斎(守文)が天保9年・1838年夏に鈴木白藤写本を写した本。 巻3と巻5のみ目録題に「見聞集〔一名江戸物語〕」と別題が付されている((4)書陵部(古心堂叢書)本と共通)。
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