第19代海軍大臣とは? わかりやすく解説

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第19代海軍大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

米内光政」の記事における「第19代海軍大臣」の解説

1937年昭和12年2月2日林内閣海軍大臣就任米内軍政が嫌いで連合艦隊司令長官就任僅か2か月退任させられ海相に任ぜられることを非常に渋り周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。当初林銑十郎海相末次信正望み両人間で了解済みであった。しかし海軍次官山本五十六前海相・永野修身米内強く推し軍令部総長伏見宮博恭王同意得て決定した米内山本次官留任させている。軍務局第一課長だった保科善四郎によれば、「広田内閣崩壊後後任海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科真っ先米内挙げ次官山本五十六同意得て留任希望永野修身説得して米内大臣就任了承取った」という。永野からの招電は、米内横須賀出港するわずか1時間であった4月海軍大将親任される。海相初期には、見かけだけ立派な大臣、という皮肉をこめ「金魚大臣」と渾名がついた。 大臣秘書官だった実松譲中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保一年横須賀一年というように、官舎やもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分戻った」と回顧している。 海軍大臣務めていた頃、年末になると海軍からはボーナスが、内閣からは手当支給されていたが、米内は「国家から二重手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って内閣からの手当を秘書官実松譲手渡していた。実考えた末、大臣スタッフ一同分配する事にして、その内一部米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと米内笑顔受け取ったという。 休日返上勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問訪れ米内秘書官同じく休日勤務をしていた軍務局長井上成美軍令部次長古賀峯一などを呼び空室だった海軍省次官室(当時次官山本五十六)を使って芸者手製弁当食していたことが露見し米内山本激怒秘書官全て解任にしようとした芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる1年間進級停止」と妥協したものの、今度米内態度硬化しダメ全員クビだ」の一点張り困った芸者衆が海軍長老直訴ようとしたところ、慌てた米内山本がこれは悪戯ということ明かしその日は芸者衆に追いかけまわされたという。もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実穣は「悪戯にも程があるではないか」と複雑な気持ち自伝述べている。また実自伝によるとこれは山本発案で、米内は「やりすぎではないか」と「消極的だった」と記しており、阿川弘之書いた米内山本の「共謀」とは少し展開が違っている。 中国華南ハンセン氏病罹患した兵が、戦闘ではなく病気で軍を離れたことに対す苦悩手記にして人事局長だった清水光美送った人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩書いた書と絵画送ったという。[要出典] 下士官・兵家族福利厚生、特に病気になった時の対策資金面都合滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内大蔵大臣結城豊太郎相談してすぐに許諾をもらい、要港大規模病院建設支出大蔵省に渋られたため、民間からの寄付補おう海相官邸財界有力者呼び集め寄付呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金集まった。これにより歴代海軍大臣懸案であった医療問題解決した1937年昭和12年6月4日第1次近衛内閣でも海相留任した8月9日第二次上海事変発生すると、8月13日閣議断固膺懲唱え陸軍派兵主張した8月14日には、不拡大主義消滅し北支事変支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州向けて、さらに8月15日には長崎から南京向けて海軍航空隊による渡洋爆撃敢行した。さらに同日から8月30日まで、上海揚州蘇州・句容・浦口南昌九江連日爆撃し、これにより日中戦争戦火各地拡大した1938年昭和13年1月11日御前会議では、トラウトマン工作交渉打切り強く主張、「蔣介石対手とせず」の第一次近衛声明つながった1月15日大本営政府連絡会議において、蔣介石政権との和平交渉トラウトマン工作継続強く主張する陸軍参謀次長多田駿反対して、米内交渉打切り主張し近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた。これは中国における最も有力な交渉相手捨て去って泥沼長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府対日感情著しく悪化させた。 11月25日五相会議で、米内海南島攻略提案し合意事項とした。当時海軍中央部では「海南島作戦将来の対英米戦に備えるものである」という認識常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵反対する賀屋興宣閣議怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出してシナ事変泥沼化させた」「海南島出兵強行し日米関係決定的に悪化させた」という批判もある[要出典]。この言動は、海軍論理政治世界で優先させるということ米内一貫した思想にすぎなかったということ示しており、当時上海海南島には多数海軍部隊孤立しており、それを救出するために米内派兵主張したが、その派兵事変全体長期化を招く危険に米内考慮はらっていなかった。 1939年昭和14年1月5日平沼内閣でも海相留任した海軍次官山本五十六軍務局長井上とともにナチス・ドイツ及びイタリア王国との日独伊三国軍事同盟反対する。日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった8月五相会議席上で、「同盟締結した場合日独伊英仏米ソ間で戦争となった場合海軍として見通しはどうか」と大蔵大臣石渡荘太郎から問われ時に米内は「勝て見込みはありません。日本海軍米英相手戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍いたって問題になりません」と言下答えた8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけ三国同盟阻止したことに対し良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけたという。 米内日独伊三国同盟反対論について、「海軍力日独伊では米英及ばないという海軍論理から反対しただけであって大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。 同年豊後水道潜水艦沈没し呉鎮守府引き揚げ作業当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れ速いため作業難航外部からも経費無駄遣い批判浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲低下していた。それを察した鎮守府参謀長海軍省報告行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費いくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した米内も「次官から聞いた御苦労」とただそれだけ述べた参謀長現場戻り伝えたところ非常にモチベーション上がり作業も無事終了した参謀長戦後に「あの短い大臣言葉次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。 平沼内閣総辞職により海相辞任して軍事参議官となる。

※この「第19代海軍大臣」の解説は、「米内光政」の解説の一部です。
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