町立から市立へ(1953-1989)
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「市立飯山図書館」の記事における「町立から市立へ(1953-1989)」の解説
戦争の混乱が終息に向かっていた1953年(昭和28年)6月、飯山町公民館の一角で飯山町立図書館として開館する。開館当時の蔵書数は2,650冊であったが、県立長野図書館から161冊を特別に借り受け、更に新しく150冊を追加購入した。図書館では蔵書数1万冊を目標に町民へ図書の寄贈を呼びかけ、婦人会の助力を得て1か月半ほどで図書638冊、雑誌1,177冊を集めることに成功した。開館から1か月の利用実績は、貸出者数が198人、貸出冊数が253冊で、閲覧者数は628人、閲覧冊数は946冊とまだ少なかった。そこで利用実績を高めようと1954年(昭和29年)6月には開館時間を正午から午後9時にする取り組みを行った。 1954年(昭和29年)8月、飯山町が周辺の村と合併して飯山市となったことにより市立飯山図書館に改称する。この頃、母親文庫の活動が下水内地域にも伝播し、1954年(昭和29年)10月に「下水内PTA母親文庫飯山配本所」が飯山図書館に開設された。母親文庫は、会員であるPTAの母親が4人1組となり毎月配本所へ本を受け取りに行き、組の中で本を回し読みするという組織であった。配本所には、県立長野図書館から本が供給された。一方、飯山図書館では広い市域に対応すべく、1957年(昭和32年)に飯山市太田支所に分室を設置し、飯山市北部の住民の利便性を高めようとした。同年の蔵書数は本館が8,162冊、分室が1,500冊で、利用者は7,500人ほどであった。 1962年(昭和37年)12月、飯山市民会館へ移転する。同年、母親文庫は作文集『雪んこ』の発行を開始する。この頃の母親文庫の会員は2,000人を超えるまでに増加していた。1977年(昭和52年)には飯山市公民館木島分館にミニ図書館を開設し、翌1978年(昭和53年)より移動図書館「ゆきつばき号」を導入し、市内の巡回を開始する。続いて読書感想文集を1979年(昭和54年)から3年連続で刊行して読書欲を喚起し、郷土資料目録カードの作成や郷土資料コーナーの開設で利便性の向上に努めた。
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町立から市立へ(1951-1986)
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「御坊市立図書館」の記事における「町立から市立へ(1951-1986)」の解説
1951年(昭和26年)10月、自治体警察の廃止に伴い、空き庁舎となっていた旧御坊町警察庁舎(薗378番地の1、現館所在地)へ御坊町公民館とともに移転した。移転して間もない1953年(昭和28年)7月には紀州大水害に見舞われて多くの蔵書が泥水に浸かり除籍せざるを得なくなったほか、建物も被災したため御坊町教育委員会とともに御坊町立御坊小学校講堂へ移転を余儀なくされた。移転先が狭かったことや、災害復旧費で新規購入図書を多数購入したためそれを整理する必要があったことから、閲覧・貸出業務は休止した。1954年(昭和29年)に御坊町は周辺村と合併して御坊市となり、図書館も御坊市立図書館に改称したが、一般利用はまだ休止中であった。当時の和歌山県内の図書館について『図書館雑誌』に寄稿した熊代强は御坊市立図書館に対し「市立図書館の再建を祈る」と記している。その後、市立図書館は薗257番地(御坊小学校の北)へ教育委員会・公民館とともに移転し、閲覧・貸出業務を再開した。1954年(昭和29年)5月15日には「御坊市立図書館規則」を施行、1957年(昭和32年)12月23日に御坊市立図書館設置条例を施行している。1962年(昭和37年)度の1日平均の入館者数は53人、年間貸出冊数は11,986冊であった。 1963年(昭和38年)2月28日、旧・和歌山県立日高高等学校西館(旧制日高高等女学校の校地)へ移転、3月4日に一般の利用を開始した。しかし日高高女跡を館舎とできたのは翌1964年(昭和39年)2月28日までで、同年4月から和歌山工業高等専門学校が仮校舎とするために立ち退くこととなり、3月1日から薗257番地へ出戻りし、教育委員会との同居となった。 独立館舎が薗263番地の3に建設されたため、1967年(昭和42年)6月1日に移転、開館した。新館舎は鉄骨構造スレート葺きで面積は50坪(≒165.3 m2)であった。独立館舎を得たにもかかわらず、利用者数は移転前よりも減少してしまったが、1971年(昭和46年)頃から増加に転じた。1977年(昭和52年)度の蔵書数は16,924冊、入館者数は17,041人、貸出冊数は18,085冊であった。当時の利用者の8割は小学校から高等学校までの児童・生徒で占められ、20歳までと50代以上は女性、40代は男性の利用が多いという傾向があった。
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町立から市立へ(1924 - 1973)
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「土浦市立図書館」の記事における「町立から市立へ(1924 - 1973)」の解説
1924年(大正13年)3月12日、新治郡土浦町の町議会の議決を経て図書館の設立許可を得て、時の町長・笹部重道を館長とし、同年4月1日より図書館の創立事務を開始した。図書館の創立は当時皇太子だった昭和天皇の結婚大礼を記念したもので、6月1日に土浦町役場2階に土浦町立図書館が開館した。この頃茨城県庁は「不振の図書館事業振興に関すること」という訓令を発して県内の町村に対し図書館設置を促し、1920年代前半だけで43館が相次いで開館している。しかしこの時代に開館し現代まで存続する図書館は、土浦町立図書館から改称した土浦市立図書館のみである。当時の土浦は霞ヶ浦海軍航空隊がやって来てモダン都市へと変貌を遂げようとしていたところであった。 1930年(昭和5年)11月2日には、内西町にあった元・霞ヶ浦海軍航空隊下士官集会所跡の木造瓦葺2階建て36坪(≒119m2)の独立した建物に移転した。敷地は594平方メートルである。移転後は土浦の文化的な拠点として機能した。なお、土浦市立図書館の郷土資料コーナーには『土浦町立図書館日誌』と『土浦町立図書館図書目録』が保管・配架されている。 1940年(昭和15年)11月3日、土浦町と真鍋町が合併して土浦市となったことに伴い、土浦市立図書館に改称した。第二次世界大戦中の茨城県の図書館の様子を窺い知る資料はほとんど残っておらず、土浦市立図書館の戦中の活動も不明であるが、少なくとも戦災は受けずに済んだ。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)2月1日、有料会員制の土浦読書クラブが発足し、会員に限り図書の貸し出しを開始した。読書クラブは茨城新聞の記者だった人物を会長に据え、会員は図書の貸し出しの恩恵にあずかっただけでなく、夏休みに「緑陰文庫」と称した移動図書館を開催し、紙芝居やおはなしの会、レコードコンサートも行った。会費30円は図書館の蔵書の充実のために利用された。読書クラブ限定の貸し出し体制は1965年(昭和40年)頃まで続いた。 1947年(昭和22年)8月20日、CIE図書室が併設され、アメリカ合衆国から送られてきた『タイム』・『ライフ』・『ニューズウィーク』などの雑誌や新聞、憲法改正や民主政治に関する書籍などを配架し、利用状況の報告義務を負った。 1954年(昭和29年)5月1日、図書館の増設が行われ、図書目録を収納するカードボックスが新設された。1955年(昭和30年)2月より郷土資料の収集を開始し、1956年(昭和31年)6月に水戸学資料を購入して「水戸学文庫」としたほか、旧土浦藩主の土屋家から寄贈された藩政史料を製本整理した。続いて1957年(昭和32年)1月に色川三中の旧蔵書や原稿類を購入して「色川文庫」を、1959年(昭和34年)8月には内田甲子男から土浦藩の史料を購入して「内田文庫」を設置した。 1969年(昭和44年)8月1日、旧茨城県筑波学園都市事務所に移転した。この時初めて児童室が設置されたが、旧事務所を館舎としていたのはわずか4年間で、1973年(昭和48年)9月1日に移転準備のため一旦閉館した。図書館の跡地は1975年(昭和50年)に土浦市立郷土資料館となり、建て替えられて1988年(昭和63年)に土浦市立博物館となった。
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