生涯と音楽とは? わかりやすく解説

生涯と音楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 06:11 UTC 版)

ダニエル・シュタイベルト」の記事における「生涯と音楽」の解説

シュタイベルトベルリン生まれで、ヨハン・キルンベルガーに付いて音楽を学ぶが父にプロイセン軍隊入隊させられてしまう。彼は脱走し放浪しながらピアニストとして活動するようになり、1790年パリ落ち着くシュタイベルト1793年フェドー劇場英語版)で劇的なオペラロメオとジュリエット」を発表しており、これは後にベルリオーズ激賞された。この作品シュタイベルト作品中でも最も独自性の高い、芸術的に成功した作品であるとみなされることが多い。 シュタイベルトパリと同様ロンドンでも多く時間を過ごすようになり、そこで彼のピアノ演奏大きな注目集めた。彼は1797年にはヨハン・ザーロモンのコンサート演奏している。1798年発表したピアノ協奏曲第3番 ホ長調は、長大トレモロ有する「嵐のロンド」が特徴であり非常に人気博した翌年にはドイツへ演奏旅行開始しハンブルクドレスデンプラハベルリンでの演奏成功させた後、1800年5月ウィーン入りする。その地のフリース(Fries)伯爵邸で、シュタイベルトベートーヴェン腕比べ申し込む。 勝負記録によれば、それはシュタイベルトにとって悲惨なのだったようである。ベートーヴェンシュタイベルト新曲楽譜逆さにして譜面立てに置き、そのチェロパートの主題題材にした即興演奏勝負制した伝えられる屈辱受けたシュタイベルト即刻演奏旅行中止したパリへ戻った彼はハイドンオラトリオ天地創造」の公演準備行い1800年12月24日オペラハウスでこれを初演している。そこに至るまでに、第一執政ナポレオン辛くも爆撃逃れる場面があった。シュタイベルトはちょうど最も成功したピアノソナタ一つ出版しナポレオンの妻のジョゼフィーヌ献呈したところであったイギリスでの2度目滞在1802年夏 - 1805年秋)を終えた後、彼はパリへと戻る。シュタイベルトナポレオンアウステルリッツの戦い勝利したことを記念して3月饗宴 La Fête de Mars」と題した音楽間奏曲作曲し1806年2月4日行われた初演にはナポレオン自身臨席した。 1808年にはロシア帝国皇帝アレクサンドル1世招き受けてサンクトペテルブルクに赴き、1811年ボイエルデューの跡を継いで国立オペラ音楽監督となった。彼は以後生涯をその地で過ごすことになる。1812年にはロシア国家捧げるピアノ大幻想曲モスクワ破壊」を作曲している。 シュタイベルト1814年にほぼ演奏活動止めてしまったが、1820年3月16日サンクトペテルブルク行われた自作ピアノ協奏曲第8番で再び舞台登場した。これは終楽章合唱擁することが特徴的な曲であるが、ベートーヴェンの「交響曲第9番」よりも4年早く、またベートーヴェンの「合唱幻想曲」を除きそれまで書かれ唯一の合唱付きピアノ協奏曲であったその後エルツの「ピアノ協奏曲第6番 Op.192」(1858年)やブゾーニの「ピアノ協奏曲」(1904年)などの合唱付きピアノ協奏曲作曲されている。 シュタイベルト劇音楽加えて、主にピアノ曲多く作品を遺した。彼の演奏華麗であったが、同時代クラーマークレメンティ特徴的であったより高度な技術には欠けていたといわれる。しかし、彼の演奏作曲の才は彼がヨーロッパ中でキャリア築ける程のものであった。ニューグローヴ世界音楽事典英語版によれば、彼は「尊大傲慢、失礼かつ絶え間ない浪費家であり、不誠実」でさえあった。そのように素行が悪いという判断は、今日まで伝わる彼の生活上の出来事からも裏付けられている。これらや、同様に彼の性格に関する非難を見る場合には、シュタイベルト本当性格作り変えられたものである可能性注意をする必要がある最盛期シュタイベルトは、強い個性を持つ想像力富んだ作曲家であった彼のオペラサンドリヨン Cendrillon」(1810年)と「ロメオとジュリエット」(1793年)、すべてのピアノ協奏曲室内楽曲ピアノソナタからの選集1800年ホ長調 Op.451809年ト長調 Op.64など)そしてピアノ曲いくつかカプリース前奏曲練習曲 Op.78)は今日においても演奏され、楽しむに値するだけの音楽的価値有している。

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生涯と音楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 09:25 UTC 版)

ニコロ・ピッチンニ」の記事における「生涯と音楽」の解説

バーリ生まれナポリレオナルド・レーオフランチェスコ・ドゥランテの下で教育受けた。このときピッチンニは、同じく音楽家であった父親に同じ道を歩むのを反対されたが、バーリ司教調停おかげで音楽教育受けられのであるピッチンニ1755年最初オペラLe Donne dispettose」を製作し1760年にはローマで、自らの幼年期に関する傑作 chef d'œuvre」と、ヨーロッパで成功達成することとなったオペラ・ブッファ「チェッキーナ、または良いLa Cecchina ossia la buona Figliuola」を作曲した。 それから6年後、ピッチンニ王妃マリー・アントワネットによってパリ招かれた。彼は1756年弟子のヴィンチェンツァ・シビッラと結婚していた。彼女は歌手であったが、ピッチンニ結婚後、彼女がステージ上に出ることを許さなかった。その後彼の作品全て成功収めたが、グランド・オペラ監督達は、わざとピッチンニグルック対立するよう企み両者に同じ題材(「タウリスイピゲネイア Iphigenie en Tauride」)を同時に取り扱うよう仕向けたパリ市民グルック派とピッチンニ派の対立する二派に分かれ無意味かつ不名誉な争い起こしたグルック名作イピゲネイア」は1779年5月18日初演された。ピッチンニの「イピゲネイア」はその後1781年1月23日初演され17上演されたが、その後忘れ去られた。二派の争いは、1780年グルックパリ去った後も続き、後にはサッキーニ新たなライバル仕立て上げようとする試み成された。ピッチンニ好評を受け続け1787年グルック亡くなった後、彼を記憶するために記念碑建てることを申し出たグルック派の人々はこれを援助することを拒絶している)。 1784年ピッチンニ王立音楽学校(この学校から誕生したものの1つ1794年設立されパリ音楽院である)の教授となった1789年フランス革命勃発にともない、彼はナポリ戻り最初ナポリ王フェルディナンド4世によって厚遇されたが、彼の娘がフランス民主主義者と結婚したことで寵を失ったその後9年間彼はヴェネツィアナポリローマなどで不安定な生活を送ったが、1798年パリへ戻っている。人々は彼を熱狂的に迎え入れたが、彼は収入を得ることが出来なかった。ピッチンニパリ近郊パッシー逝去した。享年72その死後記念銘板バーリの彼が生まれた家に設置された。 ピッチンニ80作以上のオペラ製作しているが、後期の作品フランスドイツ舞台作品影響受けているものの、彼は18世紀因習的なイタリア楽派の下にあった

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