生涯と音楽
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「ダニエル・シュタイベルト」の記事における「生涯と音楽」の解説
シュタイベルトはベルリンの生まれで、ヨハン・キルンベルガーに付いて音楽を学ぶが父にプロイセンの軍隊に入隊させられてしまう。彼は脱走し、放浪しながらピアニストとして活動するようになり、1790年にパリに落ち着く。シュタイベルトは1793年にフェドー劇場(英語版)で劇的なオペラ「ロメオとジュリエット」を発表しており、これは後にベルリオーズに激賞された。この作品はシュタイベルトの作品中でも最も独自性の高い、芸術的に成功した作品であるとみなされることが多い。 シュタイベルトはパリと同様ロンドンでも多くの時間を過ごすようになり、そこで彼のピアノ演奏は大きな注目を集めた。彼は1797年にはヨハン・ザーロモンのコンサートで演奏している。1798年に発表したピアノ協奏曲第3番 ホ長調は、長大なトレモロを有する「嵐のロンド」が特徴であり非常に人気を博した。翌年にはドイツへの演奏旅行を開始し、ハンブルク、ドレスデン、プラハとベルリンでの演奏を成功させた後、1800年5月にウィーン入りする。その地のフリース(Fries)伯爵邸で、シュタイベルトはベートーヴェンに腕比べを申し込む。 勝負の記録によれば、それはシュタイベルトにとって悲惨なものだったようである。ベートーヴェンはシュタイベルトの新曲の楽譜を逆さにして譜面立てに置き、そのチェロパートの主題を題材にした即興演奏で勝負を制したと伝えられる。屈辱を受けたシュタイベルトは即刻演奏旅行を中止した。パリへ戻った彼はハイドンのオラトリオ「天地創造」の公演準備を行い、1800年12月24日にオペラハウスでこれを初演している。そこに至るまでに、第一執政ナポレオンが辛くも爆撃を逃れる場面があった。シュタイベルトはちょうど最も成功したピアノソナタの一つを出版し、ナポレオンの妻のジョゼフィーヌに献呈したところであった。イギリスでの2度目の滞在(1802年夏 - 1805年秋)を終えた後、彼はパリへと戻る。シュタイベルトはナポレオンがアウステルリッツの戦いで勝利したことを記念して「3月の饗宴 La Fête de Mars」と題した音楽間奏曲を作曲し、1806年2月4日に行われた初演にはナポレオン自身も臨席した。 1808年にはロシア帝国皇帝アレクサンドル1世の招きを受けてサンクトペテルブルクに赴き、1811年にボイエルデューの跡を継いで国立オペラの音楽監督となった。彼は以後、生涯をその地で過ごすことになる。1812年にはロシアの国家に捧げるピアノ大幻想曲「モスクワの破壊」を作曲している。 シュタイベルトは1814年にほぼ演奏活動を止めてしまったが、1820年3月16日にサンクトペテルブルクで行われた自作のピアノ協奏曲第8番で再び舞台に登場した。これは終楽章に合唱を擁することが特徴的な曲であるが、ベートーヴェンの「交響曲第9番」よりも4年も早く、またベートーヴェンの「合唱幻想曲」を除きそれまでに書かれた唯一の合唱付きピアノ協奏曲であった。その後、エルツの「ピアノ協奏曲第6番 Op.192」(1858年)やブゾーニの「ピアノ協奏曲」(1904年)などの合唱付きのピアノ協奏曲が作曲されている。 シュタイベルトは劇音楽に加えて、主にピアノ曲に多くの作品を遺した。彼の演奏は華麗であったが、同時代のクラーマーやクレメンティに特徴的であったより高度な技術には欠けていたといわれる。しかし、彼の演奏と作曲の才は彼がヨーロッパ中でキャリアを築ける程のものであった。ニューグローヴ世界音楽事典(英語版)によれば、彼は「尊大、傲慢、失礼かつ絶え間ない浪費家であり、不誠実」でさえあった。そのように素行が悪いという判断は、今日まで伝わる彼の生活上の出来事からも裏付けられている。これらや、同様に彼の性格に関する非難を見る場合には、シュタイベルトの本当の性格が作り変えられたものである可能性に注意をする必要がある。 最盛期のシュタイベルトは、強い個性を持つ想像力に富んだ作曲家であった。彼のオペラ「サンドリヨン Cendrillon」(1810年)と「ロメオとジュリエット」(1793年)、すべてのピアノ協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタからの選集(1800年のホ長調 Op.45や1809年のト長調 Op.64など)そしてピアノ曲のいくつか(カプリースと前奏曲、練習曲 Op.78)は今日においても演奏され、楽しむに値するだけの音楽的価値を有している。
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生涯と音楽
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バーリに生まれ、ナポリでレオナルド・レーオやフランチェスコ・ドゥランテの下で教育を受けた。このときピッチンニは、同じく音楽家であった父親に同じ道を歩むのを反対されたが、バーリの司教の調停のおかげで音楽教育を受けられたのである。ピッチンニは1755年に最初のオペラ「Le Donne dispettose」を製作し、1760年にはローマで、自らの幼年期に関する「傑作 chef d'œuvre」と、ヨーロッパでの成功を達成することとなったオペラ・ブッファ「チェッキーナ、または良い娘 La Cecchina ossia la buona Figliuola」を作曲した。 それから6年後、ピッチンニは王妃マリー・アントワネットによってパリに招かれた。彼は1756年に弟子のヴィンチェンツァ・シビッラと結婚していた。彼女は歌手であったが、ピッチンニは結婚後、彼女がステージ上に出ることを許さなかった。その後の彼の作品は全て成功を収めたが、グランド・オペラの監督達は、わざとピッチンニがグルックと対立するよう企み、両者に同じ題材(「タウリスのイピゲネイア Iphigenie en Tauride」)を同時に取り扱うよう仕向けた。パリの市民はグルック派とピッチンニ派の対立する二派に分かれ、無意味かつ不名誉な争いを起こした。グルックの名作「イピゲネイア」は1779年5月18日に初演された。ピッチンニの「イピゲネイア」はその後の1781年1月23日に初演され、17回上演されたが、その後忘れ去られた。二派の争いは、1780年にグルックがパリを去った後も続き、後にはサッキーニを新たなライバルに仕立て上げようとする試みも成された。ピッチンニは好評を受け続け、1787年にグルックが亡くなった後、彼を記憶するために記念碑を建てることを申し出た(グルック派の人々はこれを援助することを拒絶している)。 1784年にピッチンニは王立音楽学校(この学校から誕生したものの1つが1794年に設立されたパリ音楽院である)の教授となった。1789年のフランス革命勃発にともない、彼はナポリへ戻り、最初はナポリ王フェルディナンド4世によって厚遇されたが、彼の娘がフランスの民主主義者と結婚したことで寵を失った。その後9年間彼はヴェネツィア、ナポリ、ローマなどで不安定な生活を送ったが、1798年にパリへ戻っている。人々は彼を熱狂的に迎え入れたが、彼は収入を得ることが出来なかった。ピッチンニはパリ近郊のパッシーで逝去した。享年72。その死後、記念の銘板がバーリの彼が生まれた家に設置された。 ピッチンニは80作以上のオペラを製作しているが、後期の作品がフランスやドイツの舞台作品の影響を受けているものの、彼は18世紀の因習的なイタリア楽派の下にあった。
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