フランチェスコ・ドゥランテとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 音楽家 > 作曲家 > イタリアの作曲家 > フランチェスコ・ドゥランテの意味・解説 

フランチェスコ・ドゥランテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 22:49 UTC 版)

フランチェスコ・ドゥランテ
Francesco Durante
基本情報
生誕 1684年3月31日
シチリア王国、フラッタマッジョーレ
死没 (1755-08-13) 1755年8月13日(71歳没)
ナポリ王国ナポリ
職業 作曲家
活動期間 後期バロック

フランチェスコ・ドゥランテ: Francesco Durante, 1684年3月31日 - 1755年8月13日)は、イタリア後期バロック音楽作曲家

経歴

ナポリの北15kmのフラッタマッジョーレ出身。幼くしてナポリのイエス・キリスト貧民音楽学校(ポヴェリ・ディ・ジェス・クリスト音楽院)に入学し、ガエターノ・グレコの指導を受ける。後にサントノフリオ音楽院でアレッサンドロ・スカルラッティに師事。ローマベルナルド・パスクィーニやジュゼッペ・オッターヴォ・ピトーニにも師事したと推測されているが、その証拠文書は存在しない。

1725年にサントノフリオ音楽院においてスカルラッティの後任教授として1742年まで留任し、その後ニコラ・アントニオ・ポルポラの後任院長として、やはりナポリの、サンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院に転出した。ナポリで没するまでこの職務にあたっている。

作品と評価

ドゥランテの全作品のうち、ほとんど全ての宗教曲が、ナポリの美術蒐集家ガスパーレ・サルヴェッジによってパリ図書館に贈られた。作品一覧はフランソワ=ジョゼフ・フェティスの『万国音楽家列伝』に見出される。ウィーンの皇室図書館もドゥランテの自筆譜の貴重なコレクションを所蔵している。2つのレクイエムといくつかのミサ曲、預言者エレミアの哀歌は、とりわけ重要な作品である。

ドゥランテが舞台音楽を作曲しなかったというのは事実だが、そのために宗教音楽の大家として過大評価される結果となった。バロック音楽とその時代様式の教会音楽の作曲家の中で、ドゥランテが最上の一人であったのは間違いないが、レオナルド・レーオやアレッサンドロ・スカルラッティに比べれば見劣りするというのがこんにちの評価であり、イタリアの教会音楽に感傷趣味の流派を打ち立てたように見なされている。感傷的な作風は、ドゥランテの人柄の反映でもあった。つまり、知的で教養深いわけではないが、真面目で熱烈という性格である。ヨハン・アドルフ・ハッセは、ドゥランテの「イタリア随一の和声の大家」という評価に異議を唱えて、アレッサンドロ・スカルラッティこそそれにふさわしいと訴えた。

ドゥランテは生涯に3度結婚している。

教師としての名声はかなりのもので、門弟にニコロ・ヨンメッリジョヴァンニ・パイジエッロジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージニコロ・ピッチンニレオナルド・ヴィンチらの高弟がいる。恩師スカルラッティが門人を個別に扱ったのとは対照的に、むやみと規則の遵守を言い張るところがあった。

参考文献

メディア

 Vergine tutto amore[ヘルプ/ファイル] - 愛に満ちた処女よ

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランチェスコ・ドゥランテ」の関連用語

フランチェスコ・ドゥランテのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランチェスコ・ドゥランテのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランチェスコ・ドゥランテ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS