来歴と芸風とは? わかりやすく解説

来歴と芸風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:15 UTC 版)

正司敏江・玲児」の記事における「来歴と芸風」の解説

漫才におけるツッコミボケを叩く、いわゆる『どつき漫才』の第一人者敏江父親天理教宣教師で、布教のため敏江小学校卒業後一家香川県坂出市転居坂出市立川中学校卒業後大阪府叔父頼り来阪ミシン工場見習い女中として働く。一年半の後、父親かしまし娘両親知り合いだったため1957年かしまし娘住み込み弟子となる、ある日かしまし娘の父が2人弟子・芳江、春江連れて来てかしまし娘妹分結成させるということになり敏江入りちゃっかり娘」を結成した1962年初舞台ギター担当した。他の2人津軽三味線世界飛び込んだため解散(のちに津軽姉妹結成。芳江はのちに津軽ひろ子の名で活動)。 玲児は小学校6年生のときに両親離婚し福岡県八幡市現在の北九州市)に移る。八幡市立花尾中学校を卒業後パン屋八百屋工場酒屋などの職業転々とし、1962年京芸プロ漫画トリオ個人事務所従業員経て松竹芸能入社フラワーショウ担当をしていたが、1963年本名音楽ショウ・ピスボーイを中井次郎現在の吉本新喜劇座員池乃めだか)らと組んで初舞台。 のちに池乃めだかは『自分は玲児さんの弟子』と、玲児が師匠にあたる事を明かしている。また当時一世を風靡していた横山やすし事務所垣根越え、深い親交持っていた。 敏江と玲児は共に売れていなかったが、当時から2人交際しており、裏方マネージャーの玲児)が商品芸人敏江)に手を付け芸界の掟を破ったことで、師匠正司歌江から破門される。1964年浪曲師斎東満夫妻仲人結婚1966年夫婦である事を隠し兄妹漫才偽って正司利児・敏江の名で神戸松竹座から再出発その後夫婦漫才コンビである事を公表。しかし敏江台本覚えが悪いのに稽古嫌いで、いい加減なアドリブ誤魔化してばかりだったため、前座燻っていた。ある日舞台上で怒った玲児が敏江を本気で突き飛ばしたところ、これが初めて客にウケる最初一方的に張られていた敏江だったが、玲児に逆襲すると更にウケる事を発見し、嫁主導夫婦どつき漫才の型を確立一躍注目浴びた2人の熱心さにほだされ周囲抵抗次第解けて行き1968年には再び『正司』の屋号許される敏江の「誰のお陰で正司を名乗れると思うとるんや!」の決めゼリフは、こうして誕生した1969年第4回上方漫才大賞新人賞受賞。これをきっかけ人気上昇。特にこの時期朝日放送プロデューサー澤田隆治2人テレビタレントとして将来性見出しレギュラー番組次々と立ち上げる1970年第21回NHK紅白歌合戦』の応援合戦に、京唄子鳳啓助三代目笑福亭仁鶴とともに上方漫才落語演芸人として当時初めてとなる出場を果たす。 1971年TBS系ドラマ時間ですよ』(第2シリーズ)にレギュラー出演共演森光子松原智恵子堺正章天地真理、他) 1970年代世間『仮面ライダー』流行っていた若い頃には「ライダーキック!」の掛け声と共に飛び蹴りしたり、敏江サービス精神発揮し振袖の裾をはだけてのパンツ開帳定番ギャグにするなど、生傷絶えない熾烈な芸にエスカレートしていった。 1972年4月スタート朝日放送テレビ新・番頭はんと丁稚どん』にメインレギュラーとしてキャスティングされながら、開始早々降板させられる、という騒動発生している。新番組新聞広告に玲児の顔写真だけ掲載されていなかったことから、玲児が会社側にクレームをつけた事に、周囲が尾ヒレ付け最終的には「玲児が作者花登筐に物を投げつけた」という事にされ、社長にリーク。「人気おぼれて天狗になった」との判断で玲児は松竹芸能との専属マネジメント契約一時解除された。この一件人気絶頂期から状況一変レギュラー番組無くなり信頼をよせていた支援者(と思っていた人間)もその日以来次々と離れていくという現実さらされながらも、その後日劇舞台地方興行をこなし、地道にキャリアを積むこととなった。この時の事について、後に敏江は「玲児さんが花登さんに物を投げたというのは、話に尾ヒレがついたもの真っ赤な嘘です。人気絶頂それだけわがままで、生意気な態度見えたんやと思います。」と振り返る一方で、「人間の裏側を見せてもらい、大きな勉強になった」と語っている。 1974年、玲児の浮気発覚して私生活では結婚10年離婚となったが、根強い人気後押しされコンビ継続し養育費問題始め家庭の不幸すネタにしてしまった。夫婦漫才離婚後組み続けているのは、ミヤコ蝶々南都雄二京唄子鳳啓助以来である。 芸歴からすれば既に大ベテラン領域入りながらも、意気軒昂にどつき漫才を展開。飛び蹴りなどの見せ場こそ無くなったものの、息の合ったかけ合い平手打ち安定した笑い提供した老人ホームなど福祉施設慰問にも積極的に取り組んだ松竹芸能歴代拠点だった、浪花座の閉館2002年)及びB1角座閉館2008年)の際には、共に大トリ大役務めた後継拠点となった通天閣劇場TENGEKIにも積極的に出演しトリ務め、また2年1回割合愛知県名古屋市にある大須演芸場正月公演出演芝居活動など盛んに活動行ってきた。 2010年に入ると玲児が体調崩し同年11月には一旦舞台復帰したものの、12月10日成人T細胞白血病リンパ腫死去71歳没。2010年11月28日に、大阪府大阪市にある国立文楽劇場ホール行われた11月上方演芸特選会」で漫才披露したのが、コンビとしての最後の舞台となった。 玲児の葬儀2010年12月14日大阪市北区葬儀場行われ喪主長男及川孔児で、弔辞横山たかし・ひろし読み上げた通夜には笑福亭鶴瓶池乃めだか他、本葬には敏江師匠である正司歌江弔問訪れ、3、400人に見送られた。 その後は、敏江一人舞台中心に歌や漫談活動続けていたが、敏江2021年9月18日1時59分、脳梗塞のため大阪市内病院死去した80歳没。 敏江所属事務所デビューから亡くなるまで一貫して松竹芸能であった

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