来歴と構造
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「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1686年)」の記事における「来歴と構造」の解説
1686年の「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は、その名を冠した2隻目の護衛艦であった。 1685年、ハンブルク提督府は艦の新造を検討した。なぜなら初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」が失われた後、ハンブルクに就役していた護衛艦は「レオポルドゥス・プリムス」のみとなっていたからである。しかしその新造艦は、特に資金面の理由から、火災の犠牲となった前任の艦より小型となる予定であった。考慮の土台となったのは、大砲30門から40門を搭載したさらに小さな護衛艦である。結局、同年9月には新造に30,000ターラーをかけると決まったが、最終的には54門搭載の初代に類似した、より大きな艦の建造が決定した。大砲の数は、1690年に造られた「アトミラリテート・フォン・ハンブルク」まで削減されていない。2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の起工式は初代と同様、テーアホーフ造船所(ドイツ語版)で実施された。船匠として招聘されたのはゲルト・ゲルデスである。彼は初代と同じく、ネーデルラントの造船様式を参考にしていた。彫刻作業には、すでに「レオポルドゥス・プリムス」と初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」に関わった彫刻家・祭壇職人のクリスティアン・プレヒト(ドイツ語版)へ再び依頼を出すことができた。 いわゆる船舶設計図(ドイツ語版)では、建造費用と並んで艦の最も重要な寸法(全長140フィート、全幅36フィート、三分割されたキールの厚さ23ツォル、幅22ツォル)が定められており、費用の総額を見通せるようになっている。船尾板(英語版)の彫刻についても設計図で規定されているが、彫刻家プレヒトは艦全体の彫刻を調和させるべく自らの発議によって契約の範囲を超えて作業に打ち込み、後にその仕事の価値を評価され、追加の報酬さえ受け取っている。 艦は1686年7月に竣工した。 新しい2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の乗組員は230名から250名であり、その内兵員は50名から60名であった。 この艦は3本マスト(ミズンマスト(ドイツ語版)、メインマスト(ドイツ語版)とフォアマスト(英語版))の横帆船であった。ミズンマストの最下部(クロスジャッキ)にのみ、縦帆があった。さらにバウスプリットにはスプリットセイルを付けることができたほか、檣頭(英語版)が備わっており、もう一枚の横帆(ドイツ語: Oberblinde、オーバーブリンデ)を取り付けることが可能なジブブーム(英語版)があった。建艦にあたっては、喫水が過大にならないよう注意が必要であった。さもなければエルベ川の浅瀬、とりわけアルトナ砂州を安全に航行できなかったからである。 2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は二層艦(英語版)であり、後部は平らなトランサムスターンであった。人目を引く中心的な存在、そして地位を代表する彫刻として、艦尾正面には2匹のライオンが抑える盾に城をあしらったハンブルクの大紋章(ドイツ語版)が設置された。この彫刻作品は、様々な寓意的かつバロック様式の装飾彫刻で縁取られた。ふんだんに金で装飾されたトランサムスターンには、側面のクォーター・ギャラリー(英語版)に至る船尾楼があった。この船尾楼は、主に音楽を奏でる天使(プット)の像で構成されていた。その左右上方には、ポセイドーン像が一つずつ配置されていた。クォーター・ギャラリーは船尾楼と同様、古代の様式に従った装飾や寓意像を採用しており、これまたプットや魚のほか、ヒッポカムポスといった合成獣の像で縁取られていた。さらに各クォーターギャラリーの屋根には、ハンブルクの紋章を手で支える二人のプットの像が配されている。このほか、船尾楼の上側には美しく装飾されたフリーズが施された。船尾楼とクォーター・ギャラリーの全体は、数々の水妖が支えているように見える。上側のフリーズの上には三つの大きな舷灯が取り付けられており、伝統的な船尾部分の外観を完成させている。 船首像は、ネーデルラントの様式で建造された多くの軍艦と同様にライオンであった。それは前足で、ハンブルクの紋章を掲げていた。このような同市の紋章は、船尾楼の舵輪上方にもあった。 艦体の板張り(ドイツ語版)は、舷墻(ドイツ語版)を含めて比較的滑らかな表面を特徴とする平張りであった。 2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は大砲54門を備えており、中でも大口径の砲は下部の砲甲板に配置されていた。同艦には砲より多くの砲門(英語版)が設けられており、備砲や追加の武装を柔軟に取り扱えるようになっている。当時、これらの砲には盥が用意されており、砲身を内外からスポンジや洗い矢で冷却するべく砲員が使用していた。 砲は原則としてネーデルラント、もしくはスウェーデンから輸入したものであった。
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