来歴と概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 06:15 UTC 版)
琉球音楽の始まりは、伝説ではアカインコ(赤犬子)が始めたと伝えられるが、その基礎を作ったのは後に「湛水流」と呼ばれる一派を築いた幸地賢忠(湛水親方)とされる。 この流れは照喜名聞覚(聞覚流)に伝えられ、さらにその弟子・屋嘉比朝寄は、湛水親方から継承された曲に謡曲の技法や独自の楽曲を加えて「当流」を打ち立てた。以後、平民の出身でありながら「歌姓」を与えられるまでの実績を築いた知念績高によって琉球の古典音楽は技術上の完成を見た。 知念績高の晩年の弟子であった野村安趙は、1867年、尚泰王の命を受けて、知念績高の工工四(くんくんしー、楽譜)に忠実に、「欽定工工四」の編纂に取り組む。欽定工工四編纂を命じた尚泰王の意図は「此の体にては(安冨祖正元による改良知念工工四の形態)後世に至り(歌の)変異もあらんかと、… 毛氏野村里之子親雲上安趙へ委しく調べさせよと云々」であった。「野村流」国風絲楽三線譜(欽定工工四)を遵奉している野村流は欽定流ともいえる王府時代の国風音楽(絲楽)を継承している。一方で、野村の兄弟子であった安冨祖正元に始まり、安室朝持が伝えた楽曲や作法は「安冨祖流」と称されるようになった。 流派や会派によって楽譜や歌詞は異なる場合がある。
※この「来歴と概要」の解説は、「琉球古典音楽」の解説の一部です。
「来歴と概要」を含む「琉球古典音楽」の記事については、「琉球古典音楽」の概要を参照ください。
- 来歴と概要のページへのリンク