旧東清鉄道線とは? わかりやすく解説

旧東清鉄道線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:09 UTC 版)

野戦鉄道提理部」の記事における「旧東清鉄道線」の解説

営業区間大連-南関嶺-奉天-孟家屯・南関嶺-旅順大房身-柳樹屯・大石橋-営口煙台-煙台炭鉱蘇家屯-撫順 路線距離(営業キロ):835.6km 軌間1067mm 複線区間:なし(全線単線電化区間:なし 大連-孟家屯間は「本線」、南関嶺-旅順間は「旅順支線」、大房身-柳樹屯間は「柳樹支線」、大石橋-営口間は「営口支線」、煙台-煙台炭鉱間は「煙台炭鉱支線」、蘇家屯-撫順間は「撫順支線」と呼ばれた割譲された本線区間書類上は大連-寛城子となっていたが、実際に既述通り手前の孟家屯までであった

※この「旧東清鉄道線」の解説は、「野戦鉄道提理部」の解説の一部です。
「旧東清鉄道線」を含む「野戦鉄道提理部」の記事については、「野戦鉄道提理部」の概要を参照ください。


旧東清鉄道線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:09 UTC 版)

野戦鉄道提理部」の記事における「旧東清鉄道線」の解説

1904年7月18日最初に旅順支線ダルニー-南関嶺-後革鎮堡間が開通した際には定期2往復で運転が開始された。所要時間下り1時間40分、上り1時間30であった7月26日本線南関嶺-金州間、柳樹支線開通すると、本線柳樹支線には1往復旅順支線には2往復列車設定された。9月11日本線大石橋達すると、全線6往復体制となり、9月18日営口支線開通するとこちらも6往復とされた。10月2日本線遼陽達すると、本線ダルニー-遼陽間に3往復営口支線本線から乗り入れ遼陽-営口間に3往復設定されたが、柳樹支線はしばらく運休となった10月26日にはダイヤ改正本線列車の種類変更するとともに旅順支線には6往復設定された。10月27日本線煙台達すると遼陽-煙台間に4往復設定次いで11月1日煙台炭鉱支線に2往復設定された。 11月20日本線が8往復増発営口支線若干増発行った12月30日にはダルニー-遼陽間・旅順支線営口支線が7往復統一された。 1905年1月7日から柳樹支線復活、7往復設定された。1月23日には柳樹支線を6往復とし、営口支線線内折り返し化、旅順支線煙台炭鉱支線列車の種類変更1月24日旅順支線全通すると、旅順支線10往復営口支線が7往復となったが、1月28日には旅順支線は3往復減便された。この時点での本線ダイヤダルニー-瓦房店間4往復瓦房店-大石橋間3往復大石橋-遼陽間7往復営口支線乗り入れ含む)であった3月11日本線沙河まで開通すると、煙台炭鉱支線を2往復減便本線遼陽-沙河間を5往復柳樹支線を7往復とした。3月20日には本線大連-遼陽間に7往復遼陽-蘇家屯間に6往復となり、営口支線は7往復撫順支線本線から乗り入れ遼陽-孤家子間1往復変更された。なお4月2日からは柳樹支線が、4月3日からは煙台炭鉱支線列車運転を廃止している。 4月24日本線新台子まで開通すると、本線大連-大石橋間8往復大石橋-遼陽14往復遼陽-新台子間6往復増便され、撫順支線本線から乗り入れ遼陽-二十寨間2往復となった6月1日には本線大増発し遼陽以北16往復に、営口支線は8往復撫順支線本線から乗り入れ遼陽-千金寨間4往復となった5月7日本線鉄嶺達すると、本線では8往復設定された。5月13日撫順支線千金寨まで開通すると、2往復設定6月5日本線開原まで開通すると、鉄嶺-開原間に6往復設定された。 7月1日にはダイヤ改正が行われ、大連-鉄嶺16往復鉄嶺-開原間6往復とし、営口支線を4往復減便7月7日本線昌図達すると開原-昌図間1往復設定大連-鉄嶺間は12往復営口支線本線から乗り入れ鉄嶺-営口間4往復となった。さらに7月21日には鉄嶺-金溝子間5往復鉄嶺-昌図間2往復とされた。そして8月21日大連-鉄嶺16往復旅順支線1往復変更して終戦迎えた9月19日には営口支線が8往復増便10月6日には撫順支線蘇家屯-千金寨間2往復蘇家屯-撫順間6往復となった。これ以降戦後凱旋輸送として軍事輸送徹することになり、しばらく時刻変更はない。この時期には本線大連-鉄嶺16往復大連-奉天間2往復鉄嶺-昌図間4往復となっており、本線では列車1時間30ヘッド走り、完全なネットダイヤをもって全駅で交換を行うなど、単線としてはおよそ最大限輸送行っていた。ただし時間全線下り32時間半、上り37時間表定速度10キロ余りと列車の速度遅かった1906年4月11日には大連-昌図間を8往復減便し、旅順支線を2往復撫順支線を4往復変更10月1日本線公主嶺達すると昌図-公主嶺間に4往復設定旅順支線3列車営口支線7列車とされた。 11月11日本線が孟家屯に達したため列車を孟家屯まで延長本線大連-孟家屯間4往復大連-鉄嶺間2往復大石橋-鉄嶺間1往復公主嶺-孟家屯間1往復遼陽-奉天間1往復旅順支線が3往復営口支線が7往復撫順支線が3往復となった。そして12月23日大連-孟家屯間8往復営口支線8往復変更したのを最後に南満州鉄道引き継がれた。引き継ぎ時のダイヤ本線大連-孟家屯間に混合列車2往復貨物列車6往復旅順支線が3往復営口支線が8往復撫順支線が4往復となっていた。 社史などに記録されている運行本数変遷は以上の通りであるが、これらの列車全て旅客運搬出来列車であったかどうか不明である。 1907年4月満鉄引継直前時刻表では前年1906年4月改正時刻掲載されており、本線大連-昌図間が1往復大連-鉄嶺間が1往復となっていた。下り昌図行が大連9時発→昌図翌日14時23分着、鉄嶺行が大連18時発→鉄嶺翌日1932分着、上り鉄嶺1111分発→大連翌日12時50分着、昌図16時29分発→大連翌日2150分着と全て夜行であり、全線通すと30時間近くかかった旅順支線大連11時と20時、旅順7時20分と16時20分の2往復で、片道3時間を要した営口支線大石橋発8時15分23時35分、営口6時35分と2135分の2往復片道1時間であった。また撫順支線蘇家屯15時50分と撫順10時55分の1往復のみで、片道3時間半かかっている。 この時刻表改正が行われた時期には、上述通りもっと多く列車走っていたことから、一般人便乗することの出来列車極めて少なかったことが分かる運賃本線大連-昌図間が7円70銭、旅順支線大連-旅順間が1円営口支線大石橋-営口間が50銭、撫順支線蘇家屯-撫順間が1円20であった小人運賃定められており、4歳未満無料4歳以上12歳未満半額で、10未満端数10銭に切り上げて算出した当初中国人普蘭店以北乗車するには、兵站公布され認可書を必要としたが、すぐに廃止された。 等級については南満州鉄道への引き継ぎ時点では、二等三等四等三等級制が採られていた。四等車は客車ではなく有蓋車に窓と照明設置して三等客車代用車」としたもの別称である。これは労働者など貧困層向けの等級であり、中国の鉄道では広く行われていたものであった

※この「旧東清鉄道線」の解説は、「野戦鉄道提理部」の解説の一部です。
「旧東清鉄道線」を含む「野戦鉄道提理部」の記事については、「野戦鉄道提理部」の概要を参照ください。


旧東清鉄道線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:09 UTC 版)

野戦鉄道提理部」の記事における「旧東清鉄道線」の解説

本線はじめとする旧東清鉄道線は軌間1,067ミリ改修され日本から持ち込まれ車両使用された。 機関車多く逓信省鉄道作業局(のち帝国鉄道庁)や陸軍省戦争のために国内輸送増強兼ねて発注しその上で供出したものであったが、改修北へ進むにつれて不足となり、当時の大私鉄ある日鉄道九州鉄道山陽鉄道北海道炭礦鉄道関西鉄道北越鉄道からもかなり無理をして供出された。 これらの私鉄供出車は検修充分ではなく、また突然徴発されたために検修をする暇もなかったばかりか、車両形式数を増やしてしまい、現場大きな負担強いた。なお、関西鉄道からの供出車両については4両であったことが確認されているが形式不明である。 B6形(359, 361ほか) のちに鉄道院2120形2400形2500形となる、車軸配置C1形のタンク機関車である。鉄道作業局から47両、陸軍省から148両の計195両が供出された。日露戦争勃発にともない両者によって国内輸送力の増強目的発注され409両から供出されたものである最初に提理部がダルニー(のちの大連入りした時は359361号の2両のみであったが、順次増強途中で日本送還されたりして増減繰り返しながら徐々に数を増やし最終的に提理部の主力機関車となった南満州鉄道発足時には190両が引き渡され改軌まで稼働していた。 D10形(242 - 251) のちに鉄道院5700形となる、車軸配置2B形のテンダー機関車である。鉄道作業局から10両が供出された。1904年末頃に提理部に送られたと考えられている。このうち242号は大破して現地廃車となっているが、原因について1905年1月12日営口駅でロシア軍包囲され被弾し機関車これではないかと市原善積編『南満洲鉄道 鉄道発展機関車』では推測されているが詳しいことは不明である。残りの9両は南満州鉄道引き継がれることなく1906年から1907年にかけて日本送還されたと見られている。 F2形(807, 808, 810, 812 - 816, 818 - 824, 830 - 844) のちに鉄道院9200形となる車軸配置1Dテンダー機関車である。元々は北海道官設鉄道輸送力増強のために製造計画行っていたものを、B6形だけでは力不足として提理部向けとして1905年発注陸軍省所属し同省からの供出の形で30両が提理部に入った同形式が提理部入りした時は終戦となっており、凱旋輸送もっぱら威力発揮した考えられている。南満州鉄道には全車引き継がれ改軌まで使用された。 D3/3形(27 - 29) のちに鉄道院1850形となる、機関車の不足により、陸軍省によって日本鉄道から供出され車軸配置C形タンク機関車である。1904年12月から1年間のみ在籍した。 N3/3形(105 - 108) のちに鉄道院1960形となる、D3/3形同様、機関車の不足により日本鉄道から供出されC形タンク機関車である。1904年12月から1年間のみ在籍した。 D3/4形(60 - 65) 後に鉄道院2100形となる、日本鉄道から供出され車軸配置C1形のタンク機関車である。仕様B6形とほぼ同一である。戦争勃発間もない1904年供出され終戦後1906年まで在籍した。 Db3/6形(201 - 204) のちに鉄道院3800形となる、日本鉄道から供出され車軸配置2C1形のタンク機関車である。D3/4形とほぼ同時に供出され一部一足早く1905年返還されたが、一部終戦後1906年まで在籍した。 Wt3/4形(54 - 59) のちに鉄道院7600形となる、日本鉄道から供出され車軸配置1C形のテンダー機関車である。1904年供出され終戦後まで在籍した。なおこの形式炭水車水槽から出ているパイプむき出しであったために、現地凍結起こしてしまったという。 116形120, 127, 151ほか) のちに鉄道院5700形となる、九州鉄道から供出され車軸配置2B形のテンダー機関車である。仕様D10形と同一である。1904年供出され1905年以降返還された。 102形 のちに鉄道院2820形となる、九州鉄道から供出され車軸配置1C形のタンク機関車である。1904年供出1905年には一足早く返還された。 17形108 - 111) のちに鉄道院6100形となる、山陽鉄道から供出され車軸配置2Bテンダー機関車である。供出返還時期不明。 ヌ形(55-57) のちに鉄道院5700形となる、」北海道炭礦鉄道から供出され車軸配置2B形のテンダー機関車仕様D10形と同一である。供出時期については1904年以降であることは確認出来るが、返還時期不明 B形 のちに鉄道院1800形となる、北越鉄道から供出され車軸配置C形タンク機関車である。供出期間については他の私鉄機関車とほぼ似たようなものであった考えられている。 客車については二等車三等車があり、全て二軸車であった南満州鉄道への引き継ぎ時、二等車15両、三等車130在籍した。他に郵便車12在籍した貨車有蓋車が1,535両、無蓋車が1,774両、無蓋緩急車が494両在籍したこのうち無蓋緩急車ボギー車であった。なお有蓋車中には四等車」とされた客車代用のもの(先述)も含まれていると思われる詳細不明である。

※この「旧東清鉄道線」の解説は、「野戦鉄道提理部」の解説の一部です。
「旧東清鉄道線」を含む「野戦鉄道提理部」の記事については、「野戦鉄道提理部」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「旧東清鉄道線」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「旧東清鉄道線」の関連用語

旧東清鉄道線のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



旧東清鉄道線のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの野戦鉄道提理部 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS