旧東清鉄道線
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営業区間:大連-南関嶺-奉天-孟家屯・南関嶺-旅順・大房身-柳樹屯・大石橋-営口・煙台-煙台炭鉱・蘇家屯-撫順 路線距離(営業キロ):835.6km 軌間:1067mm 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし 大連-孟家屯間は「本線」、南関嶺-旅順間は「旅順支線」、大房身-柳樹屯間は「柳樹屯支線」、大石橋-営口間は「営口支線」、煙台-煙台炭鉱間は「煙台炭鉱支線」、蘇家屯-撫順間は「撫順支線」と呼ばれた。 割譲された本線の区間は書類上は大連-寛城子間となっていたが、実際には既述の通り手前の孟家屯までであった。
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1904年7月18日、最初に旅順支線・ダルニー-南関嶺-後革鎮堡間が開通した際には定期2往復で運転が開始された。所要時間は下り1時間40分、上り1時間30分であった。 7月26日に本線・南関嶺-金州間、柳樹屯支線が開通すると、本線と柳樹屯支線には1往復、旅順支線には2往復の列車が設定された。9月11日に本線が大石橋に達すると、全線6往復の体制となり、9月18日に営口支線が開通するとこちらも6往復とされた。10月2日に本線が遼陽に達すると、本線はダルニー-遼陽間に3往復、営口支線は本線から乗り入れ遼陽-営口間に3往復が設定されたが、柳樹屯支線はしばらく運休となった。 10月26日にはダイヤを改正、本線は列車の種類を変更するとともに、旅順支線には6往復が設定された。10月27日に本線が煙台に達すると遼陽-煙台間に4往復が設定、次いで11月1日に煙台炭鉱支線に2往復が設定された。 11月20日に本線が8往復に増発、営口支線も若干の増発を行った。12月30日にはダルニー-遼陽間・旅順支線・営口支線が7往復に統一された。 1905年1月7日から柳樹屯支線が復活、7往復が設定された。1月23日には柳樹屯支線を6往復とし、営口支線を線内折り返し化、旅順支線・煙台炭鉱支線の列車の種類を変更。1月24日に旅順支線が全通すると、旅順支線が10往復、営口支線が7往復となったが、1月28日には旅順支線は3往復に減便された。この時点での本線のダイヤはダルニー-瓦房店間4往復、瓦房店-大石橋間3往復、大石橋-遼陽間7往復(営口支線乗り入れ含む)であった。 3月11日に本線が沙河まで開通すると、煙台炭鉱支線を2往復に減便、本線の遼陽-沙河間を5往復、柳樹屯支線を7往復とした。3月20日には本線が大連-遼陽間に7往復、遼陽-蘇家屯間に6往復となり、営口支線は7往復、撫順支線は本線から乗り入れ遼陽-孤家子間1往復に変更された。なお4月2日からは柳樹屯支線が、4月3日からは煙台炭鉱支線が列車運転を廃止している。 4月24日に本線が新台子まで開通すると、本線は大連-大石橋間8往復、大石橋-遼陽間14往復、遼陽-新台子間6往復に増便され、撫順支線は本線から乗り入れ遼陽-李二十寨間2往復となった。6月1日には本線を大増発し遼陽以北を16往復に、営口支線は8往復、撫順支線は本線から乗り入れ遼陽-千金寨間4往復となった。5月7日に本線が鉄嶺に達すると、本線では8往復が設定された。5月13日に撫順支線が千金寨まで開通すると、2往復が設定。6月5日に本線が開原まで開通すると、鉄嶺-開原間に6往復が設定された。 7月1日にはダイヤ改正が行われ、大連-鉄嶺間16往復、鉄嶺-開原間6往復とし、営口支線を4往復に減便。7月7日に本線が昌図に達すると開原-昌図間1往復を設定、大連-鉄嶺間は12往復、営口支線は本線から乗り入れ鉄嶺-営口間4往復となった。さらに7月21日には鉄嶺-金溝子間5往復、鉄嶺-昌図間2往復とされた。そして8月21日に大連-鉄嶺間16往復、旅順支線1往復に変更して終戦を迎えた。 9月19日には営口支線が8往復に増便、10月6日には撫順支線に蘇家屯-千金寨間2往復、蘇家屯-撫順間6往復となった。これ以降は戦後の凱旋輸送として軍事輸送に徹することになり、しばらく時刻の変更はない。この時期には本線は大連-鉄嶺間16往復、大連-奉天間2往復、鉄嶺-昌図間4往復となっており、本線では列車が1時間30分ヘッドで走り、完全なネットダイヤをもって全駅で交換を行うなど、単線としてはおよそ最大限の輸送を行っていた。ただし時間は全線で下り32時間半、上り37時間、表定速度10キロ余りと列車の速度は遅かった。 1906年4月11日には大連-昌図間を8往復に減便し、旅順支線を2往復、撫順支線を4往復に変更。10月1日に本線が公主嶺に達すると昌図-公主嶺間に4往復を設定、旅順支線3列車、営口支線7列車とされた。 11月11日に本線が孟家屯に達したため列車を孟家屯まで延長、本線が大連-孟家屯間4往復、大連-鉄嶺間2往復、大石橋-鉄嶺間1往復、公主嶺-孟家屯間1往復、遼陽-奉天間1往復、旅順支線が3往復、営口支線が7往復、撫順支線が3往復となった。そして12月23日に大連-孟家屯間8往復、営口支線8往復に変更したのを最後に、南満州鉄道に引き継がれた。引き継ぎ時のダイヤは本線が大連-孟家屯間に混合列車2往復と貨物列車6往復、旅順支線が3往復、営口支線が8往復、撫順支線が4往復となっていた。 社史などに記録されている運行本数の変遷は以上の通りであるが、これらの列車が全て旅客を運搬出来る列車であったかどうかは不明である。 1907年4月、満鉄引継直前の時刻表では前年の1906年4月改正の時刻が掲載されており、本線は大連-昌図間が1往復、大連-鉄嶺間が1往復となっていた。下り昌図行が大連9時発→昌図翌日14時23分着、鉄嶺行が大連18時発→鉄嶺翌日19時32分着、上りが鉄嶺11時11分発→大連翌日12時50分着、昌図16時29分発→大連翌日21時50分着と全て夜行であり、全線通すと30時間近くかかった。 旅順支線は大連発11時と20時、旅順発7時20分と16時20分の2往復で、片道3時間を要した。営口支線は大石橋発8時15分と23時35分、営口発6時35分と21時35分の2往復で片道1時間であった。また撫順支線は蘇家屯発15時50分と撫順発10時55分の1往復のみで、片道3時間半がかかっている。 この時刻表の改正が行われた時期には、上述の通りもっと多くの列車が走っていたことから、一般人が便乗することの出来る列車は極めて少なかったことが分かる。 運賃は本線の大連-昌図間が7円70銭、旅順支線の大連-旅順間が1円、営口支線の大石橋-営口間が50銭、撫順支線の蘇家屯-撫順間が1円20銭であった。 小人運賃も定められており、4歳未満は無料、4歳以上12歳未満は半額で、10銭未満の端数は10銭に切り上げて算出した。当初は中国人が普蘭店以北へ乗車するには、兵站で公布された認可書を必要としたが、すぐに廃止された。 等級については南満州鉄道への引き継ぎ時点では、二等・三等・四等の三等級制が採られていた。四等車は客車ではなく、有蓋車に窓と照明を設置して「三等客車代用車」としたものの別称である。これは労働者など貧困層向けの等級であり、中国の鉄道では広く行われていたものであった。
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旧東清鉄道線
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本線をはじめとする旧東清鉄道線は軌間1,067ミリに改修され、日本から持ち込まれた車両が使用された。 機関車の多くは逓信省鉄道作業局(のち帝国鉄道庁)や陸軍省が戦争のために国内輸送の増強も兼ねて発注し、その上で供出したものであったが、改修が北へ進むにつれて不足となり、当時の大私鉄である日本鉄道・九州鉄道・山陽鉄道・北海道炭礦鉄道・関西鉄道・北越鉄道からもかなり無理をして供出された。 これらの私鉄供出車は検修も充分ではなく、また突然徴発されたために検修をする暇もなかったばかりか、車両の形式数を増やしてしまい、現場に大きな負担を強いた。なお、関西鉄道からの供出車両については4両であったことが確認されているが形式不明である。 B6形(359, 361ほか) のちに鉄道院2120形・ 2400形・2500形となる、車軸配置C1形のタンク機関車である。鉄道作業局から47両、陸軍省から148両の計195両が供出された。日露戦争勃発にともない、両者によって国内輸送力の増強目的で発注された409両から供出されたものである。最初に提理部がダルニー(のちの大連)入りした時は359・361号の2両のみであったが、順次増強。途中で日本に送還されたりして増減を繰り返しながら徐々に数を増やし、最終的に提理部の主力機関車となった。南満州鉄道発足時には190両が引き渡され、改軌まで稼働していた。 D10形(242 - 251) のちに鉄道院5700形となる、車軸配置2B形のテンダー機関車である。鉄道作業局から10両が供出された。1904年末頃に提理部に送られたと考えられている。このうち242号は大破して現地で廃車となっているが、原因については1905年1月12日に営口駅でロシア軍に包囲され、被弾した機関車がこれではないかと市原善積編『南満洲鉄道 鉄道の発展と機関車』では推測されているが詳しいことは不明である。残りの9両は南満州鉄道に引き継がれることなく、1906年から1907年にかけて日本へ送還されたと見られている。 F2形(807, 808, 810, 812 - 816, 818 - 824, 830 - 844) のちに鉄道院9200形となる車軸配置1D形テンダー機関車である。元々は北海道官設鉄道が輸送力増強のために製造計画を行っていたものを、B6形だけでは力不足として提理部向けとして1905年に発注、陸軍省に所属し同省からの供出の形で30両が提理部に入った。同形式が提理部入りした時は終戦となっており、凱旋輸送にもっぱら威力を発揮したと考えられている。南満州鉄道には全車引き継がれ、改軌まで使用された。 D3/3形(27 - 29) のちに鉄道院1850形となる、機関車の不足により、陸軍省によって日本鉄道から供出された車軸配置C形のタンク機関車である。1904年12月から1年間のみ在籍した。 N3/3形(105 - 108) のちに鉄道院1960形となる、D3/3形同様、機関車の不足により日本鉄道から供出されたC形タンク機関車である。1904年12月から1年間のみ在籍した。 D3/4形(60 - 65) 後に鉄道院2100形となる、日本鉄道から供出された車軸配置C1形のタンク機関車である。仕様はB6形とほぼ同一である。戦争勃発後間もない1904年に供出され、終戦後の1906年まで在籍した。 Db3/6形(201 - 204) のちに鉄道院3800形となる、日本鉄道から供出された車軸配置2C1形のタンク機関車である。D3/4形とほぼ同時に供出され、一部は一足早く1905年に返還されたが、一部は終戦後の1906年まで在籍した。 Wt3/4形(54 - 59) のちに鉄道院7600形となる、日本鉄道から供出された車軸配置1C形のテンダー機関車である。1904年に供出され、終戦後まで在籍した。なおこの形式は炭水車の水槽から出ているパイプがむき出しであったために、現地で凍結を起こしてしまったという。 116形(120, 127, 151ほか) のちに鉄道院5700形となる、九州鉄道から供出された車軸配置2B形のテンダー機関車である。仕様はD10形と同一である。1904年に供出され、1905年以降に返還された。 102形 のちに鉄道院2820形となる、九州鉄道から供出された車軸配置1C形のタンク機関車である。1904年に供出、1905年には一足早く返還された。 17形(108 - 111) のちに鉄道院6100形となる、山陽鉄道から供出された車軸配置2B形テンダー機関車である。供出・返還の時期は不明。 ヌ形(55-57) のちに鉄道院5700形となる、」北海道炭礦鉄道から供出された車軸配置2B形のテンダー機関車。仕様はD10形と同一である。供出の時期については1904年末以降であることは確認出来るが、返還時期は不明 B形 のちに鉄道院1800形となる、北越鉄道から供出された車軸配置C形のタンク機関車である。供出期間については他の私鉄の機関車とほぼ似たようなものであったと考えられている。 客車については二等車・三等車があり、全て二軸車であった。南満州鉄道への引き継ぎ時、二等車は15両、三等車は130両在籍した。他に郵便車が12両在籍した。 貨車は有蓋車が1,535両、無蓋車が1,774両、無蓋緩急車が494両在籍した。このうち無蓋緩急車はボギー車であった。なお有蓋車の中には「四等車」とされた客車代用のもの(先述)も含まれていると思われるが詳細不明である。
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