旅順攻囲戦とは? わかりやすく解説

旅順攻囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 15:00 UTC 版)

ロマン・コンドラチェンコ」の記事における「旅順攻囲戦」の解説

1904年日本第3軍による旅順攻撃開始された際にも常に前線に立ち部下将兵鼓舞し続けた旅順港内のロシア太平洋艦隊旅順艦隊)から艦載砲陸揚げした上で要塞配備して砲撃力を高め堡塁からの機関銃による十字砲火手榴弾地雷高圧電流流した有刺鉄線効果的に利用して日本軍歩兵銃剣突撃防ぎ弾薬不足を補うために海軍から余剰武器転用し機雷敵兵向けて投げ落としたり、大砲魚雷装填し砲撃するなどの戦法工夫し日本軍大きな損害与えることに成功する。またステッセリから叙勲権代行の権利を受けると、功績のあった将兵に自ら勲章授与し激励した部下将兵コンドラチェンコの姿に勇気付けられ必死になって戦った12月5日203高地陥落日本軍による砲撃によって旅順艦隊全滅する。それでも彼の闘争心衰えず将兵励まし続けたので兵士士気高かった12月15日東鶏冠山北堡塁将兵激励する為、コンドラチェンコ自身視察訪れた一人兵士勲章与え激励しその場から離れようとしたその時に、日本軍二十八糎砲砲弾直撃を受け戦死したコンドラチェンコ戦死将兵たちに衝撃与え士気大きく低下したと言われるステッセリ旅順開城降伏申し出たのは1905年1月1日のことであった日露戦争時コンドラチェンコ活躍ロシア国内でも大きな話題となり、終戦後彼の遺体ペテルブルク埋葬することが決定された。遺体は、海路オデッサまで運ばれ陸路鉄道運ばれたが、駅では人だかりの山ができた。彼の遺体アレクサンドル・ネフスキー大修道院墓地埋葬された。ニコラエフ工兵学校、第20連隊(スヴァルキ)、ポロツク幼年団には、彼の記念碑建てられた。

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旅順攻囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)

乃木希典」の記事における「旅順攻囲戦」の解説

詳細は「旅順攻囲戦」を参照 乃木率い第3軍は、第2軍属していた第1師団および第11師団基幹とする軍であり、その編成目的旅順要塞攻略であった明治37年1904年6月6日乃木遼東半島の塩大澳上陸した。このとき乃木児玉源太郎と共に大将昇進し同月12日には正三位叙せられている。 第3軍は、6月26日から進軍開始し8月7日第1回10月26日第2回11月26日第3回総攻撃行ったまた、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃敢行した。 乃木はこの戦いで正攻法行いロシア永久要塞攻略した第1回目攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請半ば押される形で強襲作戦となり(当時軍装備、編成要塞早期攻略するには犠牲覚悟強襲法しかなかった)、乃木指揮について、例え歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温後年、「乃木のために死のう思わない兵はいなかったが、それは乃木風格よるものであり、乃木の手抱かれ死にたい思った」と述べたほどである。乃木人格は、旅順攻略する原動力となった乃木補充できない要塞を、正攻法自軍損害抑えつつ攻撃し相手消耗させることで勝利出来ると確信していたが、戦車航空機もない時代機関砲配備した永久要塞対す攻撃極めて困難であった第3軍満州軍司令部大本営に度々砲弾要求したものの、十分な補給が行われることはついになかった。旅順攻撃開始した当時旅順要塞早期陥落する楽観視していた陸軍内部においては乃木対す非難高まり一時乃木第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇御前会議において乃木更迭否定的な見解示したことから、乃木続投決まったといわれている。また、大本営第3軍に対して直属の上司令部である満州軍司令部異な指示を度々出し混乱させた。特に203高地攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長反対していた。それでも大本営海軍側に催促されたこともあり、満州軍指導反す指示越権して第3軍にし、乃木たちを混乱させた。 乃木対す批判国民の間にも起こり東京乃木邸は投石受けたり乃木邸に向かって大声乃木非難する者が現れたりし、乃木辞職切腹勧告する手紙が2,400通も届けられた。 この間9月21日には、伯爵に陞爵した。 11月30日第3回総攻撃参加していた次男・保典が戦死した。6か月前の5月27日長男・勝典の戦死直後、保典が所属していた第1師団長の伏見宮貞愛親王は、乃木息子二人戦死させては気の毒だろうと考え、保典を師団衛兵長に抜擢した乃木父子困って辞退したが、親王は「予の部下どのように使おうと自由であり司令官容喙受けないと言い張った。保典の戦死知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間申し訳が立つ」と述べたという。長男次男相次いで亡くした乃木日本国民は大変同情し戦後に「一人息子泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡流行するほどだった。乃木出征前に父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んで棺桶3つ揃うまでは葬式出さないように」と夫人の静に言葉を残していた。 明治38年1905年1月1日要塞正面突破され、予備兵力も無くなり抵抗不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセル(ステッセリとも表記される)は、乃木対し降伏書を送付した。これを受けて1月2日戦闘停止され旅順要塞陥落した。 この戦いに関する異説として、旅順に来た児玉源太郎指揮をとって203高地攻略したというものがある。この異説は、作家司馬遼太郎著した小説初出世に広まり以降日露戦争関連本でも載せられるほどとなった。しかし、司馬作品発表される以前にはその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述一切存在しない203高地児玉が来る前に一度陥落するほど弱体化しており、再奪還時間の問題であった。 この戦いで繰り広げられ塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦西部戦線先取りするような戦いとなった鉄条網周囲覆った塹壕陣地を、機関銃連装銃で装備した部隊守備すると、いかに突破困難になるかを世界知らしめた。他にも、塹壕への砲撃それほど相手消耗させないことや、予備兵力を消耗させない限り敵陣全体突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われ戦訓多くあった。しかし、西洋列強はこの戦いを「極東僻地行われた特殊なケース」として研究せずに対策怠り結果的に第一次世界大戦で大消耗戦悲劇招いた

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