旅順工科学堂から満鉄入社
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「福井道二」の記事における「旅順工科学堂から満鉄入社」の解説
大正10年(1921年)、旅順工科学堂(のち旅順工科大学)入学のため神戸から興安丸に乗り、瀬戸内海、玄界灘、黄海と船中で三泊して大連に入港する。大連の西公園通りにある、中神庫三郎(義兄)の弟の家で一泊し、翌日に一年先輩の太田半治に迎えられて、二頭馬車に乗り寄宿舎に入っている。旅順工科学堂は日露戦争後に、満蒙開発の指導者となる日本と中国の青年を養成する目的で創立された。本館はロシアの野戦病院として使用されていたもので、レンガ壁の厚さは一・二メートルもあり、二重ガラスの三階建であった。四年の夏休みなどを実習に費やし、一般の大学より三ヶ月早い12月に卒業させ、実社会へ送り出していた。大正13年(1924年)5月、撫順炭砿の実習を終え、日本に帰国すると同時に両親と長兄作太郎に談判して、かねてより交際のあった女性(大通寺の娘)との結婚の同意を得て、夏に中神庫三郎の仲人で、伊良湖岬村堀切の大通寺において結婚式を挙げた。南満洲鉄道株式会社への入社は大学の成績により、卒業前に決まっていた。旅順工科大学より大正14年度に入社したものは、次の通りである。機械工学科から福井道二、大中信夫、古賀喜熊、三橋健児、菅寿明、川口幸次郎、西原駒市、長尾次郎。電気工学科から多尾静雄。採砿冶金工学科から服部信次。機械工学科の連中が人事課へ出頭したところ、くじ引きで福井が鉄道部機械課客貨車係、大中と古賀が鉄道部運転課、三橋が地方部建築課に決まった。大正14年(1925年)12月には千葉にあった近衛師団所属の鉄道第一連隊へ入隊。大正15年(1926年)12月21日、大連に戻り同月27日にヤマトホテルで披露宴をする予定であったが、同月25日に大正天皇が崩御された為、計画を中止した。満鉄に入社した福井は六十トン積み万能無蓋車の設計を命じられ、ホッパー型の大豆、石炭、鉱石などの積み下ろしの容易な設計を完成し、主任・課長の承認を得て大連機械製作所へ発注した。
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