心の哲学
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当節では心の哲学の領域における物理主義の主張について概説する。 心の哲学において、20世紀初頭にまず心は物理的であるか、という問題が論じられた。物理主義的な立場から実体二元論的な考えが批判され、デカルト的な心についての考えが「機械の中の幽霊」といった形で批判を受けた。 20世紀中盤に志向性の問題が論じられた。志向性を物理主義的に扱うことができるのか、という問題が論じられた。 20世紀末ごろからは、心の哲学の分野の主要な争点が、「意識」に移った。コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきた。つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきた。こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。 物理的(physical)なものとは何か、この定義によって物理主義の立場がどういうものかが決まることになるが、この点がハッキリと定義されることはあまりない。この定義次第で、物理主義はかなり広い範囲の立場を含むことが可能である。例えば極端な例として、ガレン・ストローソン(一般に性質二元論または中立一元論に分類される)のように、汎心論を唱えつつ自身の立場を物理主義と形容する事もある。 一般的には現在の理論物理学のなかに出てくるものの実在だけを認める立場が物理主義なのだと考えておけばおおよそ間違いない。 つまり現代の心の哲学の文脈で言うと、意識の問題(意識のハードプロブレム)に関して、存在論的に保守的な形で解決を目指す立場が、物理主義である。 行動主義 同一説 機能主義 物理主義に対する批判はもっぱら、現象的意識、主観的体験、クオリアなどと呼ばれる意識の主観的側面について、物理主義の範囲内ではうまく扱いきれないのではないか、という点に集中する。 こうした議論の例として次のようなものがある。 コウモリであるとはどのようなことか 知識論証(「マリーの部屋」とも言う) ゾンビ論法 知識論法は1982年にフランク・ジャクソンによって提唱された論法で、この世界に関しての全ての物理的な知識を得たとしても、まだ知らない事が残ってしまう、だから物理主義は誤りだ、という論証。 ゾンビ論法は、1996年にデイヴィッド・チャーマーズによって提唱された論法で、物理的な側面に関して全く同一だが、現象的な意識を欠く世界を想像できる、だから現象的意識は物理的なものに論理的に付随しているわけではない、ゆえに物理主義は間違っている、という論証。
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心の哲学
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デネットはいくつかの場所(例えば『Brainchildren』の「Self-portrait」)にて、自らの哲学的プロジェクトがオックスフォードでの学生時代からほとんどそのまま続いていると述べている。彼の主要な関心は、経験科学に裏打ちされた心の哲学理論を提出することにある。もともと、博士論文の『Content and Consciousness』において、彼は心を説明するという課題を二分割して、内容の理論と意識の理論の両者が必要だとしていた。このプロジェクトに対するアプローチにおいても、この区分は維持されてきた。『Content and Consciousness』が二部構成であったのと同様に、『Brainstorms』も2つのセクションに分けられた。後に、内容についてのいくつかの論文は『The Intentional Stance』にまとめられ、意識についての見解は理論的に統一され『Consciousness Explained』に結実した。これらの著作おいて、デネットの主張は最も広範に展開されている。 『Consciousness Explained』の第5章において、デネットは意識の多元的草稿モデルを提案している。彼の説明によると、「あらゆる種類の知覚――実のところ、あらゆる種類の思考や心的活動も――が脳内で実現するときには、感覚入力を解釈・推敲する複数のプロセスが平行して進められる。神経システムに入ってくる情報は、常に「編集」され続けている」(p. 111)。デネットはこうも述べている。「時間の経過に伴って、これらは一つの物語のようなまとまりを持ち、それは脳内の多くのプロセスによって継続的に編集され続けると考えられる」(p. 135、イタリックは原文)。 内容を生み出すという意識の性質の一部を、進化によって説明することができる、というデネットの関心がこの時点ですでに伺える。そして、以後このテーマは彼の研究プログラムの中心に来ることになる。彼は神経ダーウィニズムとして知られる立場を擁護するのである。また、彼はクオリアを否定する議論もしている。つまり、この概念はあまりに混乱しているため、矛盾せずにこの言葉を使用したり理解することはできず、したがって物理主義に対する有効な反駁とはなりえないという。デネットの戦略は師であるライルから受け継いだものであり、一人称的現象を三人称的言葉遣いで再定義し、その定義が一貫して使用可能ではないことを示すというアプローチをとっているのである。 デネットは次のように自己認識している。「私が『こういったテーマを議論する際に哲学者が標準的に用いる専門用語を使用しない』ことがしばしば問題となっている、と他の哲学者は述べている。彼らは、私が何を主張し、何を否定しているのか、理解するのが困難だというのである。だがもちろん、私が彼らと同じ土俵に上がらないのは意図的にそうしているのである。なぜなら、このテーマで用いられる標準的な言葉遣いは、役立たずであるどころか有害だと考えているからだ。それはあまりにも多くの間違いを含んでいるため、研究の進展を妨げているのである」。 『Consciousness Explained』にて、「もちろん、私はある種の『目的論的機能主義者』である。おそらく、独特な意味での目的論的機能主義者である」と彼は認めている。また、「私は検証主義者であると告白する準備もある」とも述べている。
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心の哲学
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中世の心の哲学はアリストテレスの『霊魂論』、いわば12世紀に西方ラテン世界に再紹介されたもう一つの作品に基づいている。心の哲学は自然哲学の一分野とみなされていた。この分野で議論された問題のうちのいくつか: 神の光 - 神の光の教義は古く、重要な自然主義の代替物である。そこでは、人は普段ものを考える際に神からの特別の補助を必要としていると考えられている。この教義はアウグスティヌスおよびスコラ学派のうちの彼への追随者にもっとも強く関係している。近世においてもこの教義は別の形で再登場した。 論証の理論 心の表象 - 精神状態は「志向性」を持っているという考え;つまり、「精神状態であるにもかかわらず、それらは心の外部のものを表象することが可能である」というのは近代の心の哲学に固有の問題である。しかしそれは中世哲学に起源をもつ(「志向性」という言葉はフランツ・ブレンターノによって復活させられた。彼は中世の用法を表そうとした)。オッカムは、言語は第一に慣習によって精神状態を表し、第二に実在物を表すのに反して対応する精神状態は必ずそれらの実在するものを表すという理論を提唱したことでよく知られている。 この分野の著述家としてはアウグスティヌス、ドゥンス・スコトゥス、オートルクールのニコラ、トマス・アクィナス、そしてオッカムのウィリアムがいる。
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心の哲学
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キムは研究者として心身問題にかかわる様々な理論を擁護してきた。最初に擁護したのは一種の同一説で、これは1970年代前半のことである。その後、付随性に大きな信頼を置く、非還元主義的な種類の物理主義に移行した。 その後さらに、心身問題の解決するために十分な説明能力を備えていないという理由で、物理主義の批判に転じた。物理主義批判の論証は2つの最近の研究『物理世界における心』Mind in a Physical World(1998年)および『物理主義あるいはほぼ十分なもの』(2005年)などで読むことができる。キムの考えでは、「物理主義はそのままのかたちでは今後生き残ることはないであろう」。なぜならクオリア(現象的ないし質的な側面から見た心的状態のこと)は物理的状態や物理プロセスには還元できないからである。「現象的な心的特性を機能的に定義することは不可能であり、従って機能的に還元することもできない」。そして、「もしクオリアについて機能的還元がうまくいかないのなら、他のやりかたはない」。ゆえに、物理主義で表現することのできない心の側面というものがあることになる。 キムの現在の立場は、志向的な心的状態(例:信念、欲望)は機能的には神経の働きの帰結に還元できるが、質的ないし現象的な心的状態(例:知覚)は非物理的かつ随伴現象的であり、神経の働きには還元できないという命題を擁護するものである。従ってキムの立場は一種の二元論を擁護するものであるが、ただしキムはほぼ物理主義と言ってもよいと述べている。キムは2008年に韓国の日刊紙『中央日報』に掲載されたインタビューでも、物理主義がなにものにも代え難い最も包括的な世界観であると述べている。 キムはこのインタビューで、心は自然現象であって、超自然的な説明を行っても「謎が深まるばかり」なので、心については自然主義的な説明をしなければならないと述べている。心の本性についての説明は、哲学や心理学よりも自然科学によって可能になるとキムは考えている。
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心の哲学
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心の哲学についてサールは多数の主張をおこなっている。サールによれば、意識とは第一者(その意識を所有し、経験している当の本人)からによってのみ接近可能な、存在論的で還元不可能な性質を持っている。たとえば痛みという感覚を挙げると、痛みは誰かの主観性によって感じられない限り存在せず、したがって存在論的な主観性を持っている。サールは、第三者から見て観察可能なデータのみを扱う行動主義や機能主義のようなアプローチを、意識の還元不可能性を無視する姿勢だとして批判している。例えばダニエル・デネットによるヘテロ現象学のような姿勢は、意識の存在自体を否定するものだとサールは言う。 サールによれば、胃が胃液を分泌したり、植物が光合成を行ったりするように、脳の生物学的な条件によって意識が生み出される。このような立場は、生物学的自然主義(biological naturalism)と呼ばれることがある。 その一方でサールは、心と身体は相互排他的なレヴェルで存在しているとする伝統に対してサールは批判的であり、心的/物理的というようなカテゴリーはもはや廃棄すべきだと考えている。その一方では、脳と意識の関係を科学的に解明するにあたっては、意識のもつ存在論的で還元不可能な性質(存在論的主観性)を取り残さないことの必要性をサールは強調する。意識は、統一された場(unified field)であるという性質を持つことを指摘したうえで、サールは神経科学に対し、そのほうが、より効率的に意識の謎へ接近できるとして推奨している。
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