小御所会議とは? わかりやすく解説

小御所会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:12 UTC 版)

山内容堂」の記事における「小御所会議」の解説

しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始薩摩長州勢に主導権握られた。同年12月9日1868年1月3日開かれた小御所会議に於いて薩摩尾張越前芸州各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して[要出典]会議参加した。豊信は幕府将軍の側に立って意見したものの、会議岩倉の説に決まり徳川慶喜に対して辞官納地命ずることが決定したその後有栖川宮熾仁親王明治天皇許可取った

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小御所会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)

王政復古 (日本)」の記事における「小御所会議」の解説

詳細は「小御所会議」を参照 12月9日18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初三職会議開かれた山内容堂公議政体派は、慶喜出席許されていないことを非難し慶喜議長とする諸侯会議政体主張した。これに対し岩倉大原らははじめ押されていたが、容堂が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三公家幼沖なる天子擁して陰謀企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言責めたため、容堂も沈黙したという。この時点で辞官納地慶喜内大臣辞任幕府領全納)は決まってはいなかったが、岩倉らは徳川政権失政並べ「辞官納地をして誠意見せることが先決である」と主張する。 容堂らは慶喜出席強く主張して両者譲らず、遂に中山忠能休憩宣言した。同会議出席していた岩下方平は、西郷隆盛助言求めた西郷は「ただ、ひと匕首あいくち短刀)あるのみ」と述べ岩倉勇気付ける。このことは芸州藩を介して土佐藩伝えられ再開され会議では反対する者がなく、岩倉らの主導会議進められ辞官納地決した(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力200万石半納になった)。 なお、容堂が慶喜即時招致求めて激し議論行ったことは、同時代史料一致して記載している事柄であるが、これに反論し岩倉一喝したという著名な挿話については、同時代史料記載がなく、1906年完成した岩倉実記』において初め登場するこのため、「岩倉一喝」についてはその存在否定する見解がある。

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小御所会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「小御所会議」の解説

同日夕刻開かれた小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地に関して討幕公儀政体派両陣営激しく意見対立させた。この会議では京都所司代京都守護職免職当初議題含まれていたが、会議中桑名藩主・松平定敬京都所司代を自ら辞職し会津藩主・松平容保同様に京都守護職辞したため、会議徳川慶喜地位対するもののみとなった冒頭司会公家中山忠能が「大政奉還際し先ず一点無私の公平で、はじめに王政基本定め公議尽くすべき」旨を述べ公卿の間で「内府公(内府内大臣慶喜のこと)は政権返上したが、おこなった目的正邪弁じ難いため、実績罪科咎めるべきだ」との意見みられると、前土佐藩主・山内容堂大声発して議論をはじめ「速やかに内府公(慶喜公)のほうから朝議にご参与していただくべきだ」と主張公卿大原重徳に「内府公(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知れないため、しばらく朝議参与させない方がよい」と反論されると山内抗弁し、「今日の(会議参加者の)ご挙動すこぶる陰険なところが多い。そればかりではなく凶器もてあそんで諸藩武装させた兵どもに議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢をしくにいたって陰険さが最もはなはだしく、くわしい理由すら分からぬ王政復古初めにあたっては、よくよく公平無私な心でなにごとも措置されるべきでござろう。そうでもございますまいば、天下衆心帰服させられもすまい元和偃武から300年近く天下泰平の世を開かれたのは徳川氏ではござらぬのか。なのに或る朝なれば突然理由もなく、大いなる功績あらせられる徳川氏ともあろうおかたをおそれおおくも排斥いたすとはいったい何事なのか。これぞ恩知らずというものではないか。いま内府公(慶喜公)がご祖先からご継承され覇権をも投げうたれ、ご政権をご返上なされたのは政令一途あらせられるからに違いなく、金甌無欠国体永久に維持しようしたものであらせられます。かの忠誠のほどは、まことこのわたくしなどにも、感嘆をこらえがたいほどだ。しかも、内府公(慶喜公)のご英明の名は、すでに天下とどろいているのではないのか。一刻でも早くすみやかに内府公(慶喜公)のほうへ朝議にご参与しいただき台慮たいりょ)(貴人考え)を開陳していただき遊ばされるべきだ。しかるに2、3公卿かたがたはいったいどんなご見識をもってこんな陰険な暴挙なされる。わたくしにはすこぶる理解しがたい。恐らくではありますが、幼い天皇だきかかえ、この国の権勢盗もうたくらむ悪意でもおありになるのではございますまいか。まこと天下戦乱兆し作るくわだてと申すべきでござろう」と一座睥睨すると、意気軒高に色を成し主張した越前藩主・松平春嶽も「王政施行する最もはじめのときにあたって刑罰の名をとって、道徳の方を捨ててしまうのは、はなはだよろしくない徳川氏にあらせられては200余年太平の世を開かれた幕府による天下泰平功績こんにちわずかな罪を償う余りありましょう皆さまよくよく土佐殿(山内容堂公)のお言葉お聞きになるべきです」と、山内歩調あわせた論陣張った会議参加していた福井藩士・中根雪江による『丁卯日記』によると、薩摩藩士・大久保利通が「幕府近年正しい道に背いたのははなはだ重罪なだけでなく、このたび内府公(慶喜公)の処置つきまして、わたしが正否問いますと、尾張侯(徳川慶勝)、越前侯(松平春嶽)、土佐侯(山内容堂)、おさんかた無理に立てになった説をうのみにすべきではございません。事実をみるに越したことはない。まず内府公(慶喜公)の官位けなしてみまして、所領朝廷収めるよう命じまして(辞官納地)、わずかなりとも不平不満声色がなく、真実をみることができましたならば、すみやかに参内命じ会議参加していただけばよろしい。もしそれ違って一点でも要求受け入れ拒んで、あるいはふせぐ気配があったなら、政権返上大政奉還)はうそいつわり策略でありますさすれば実際に官位剥奪のうえ領地削り内府公(慶喜公)の罪と責任天下に示すべきであります」といい、公家岩倉具視大久保の説に追従しまわりにも採用するようしきりに勧めながら「内府公(慶喜公)の正邪分かつには、空論分析もてあそぶより、実績を見るに越したことはない」と弁論をきわめ、山内や春嶽とおのおの正論信じところを主張しあって、会議決着しなかった。この後会議休憩に入るが、休憩中に薩摩藩士・西郷隆盛が「短刀一本があれば片が付く」と刀を示した。この西郷言葉聴いてから休憩室入った岩倉は「山内容堂がなおも固く前と同じ論陣を張るなら、私は非常手段使って、ことを一呼吸の間に決するだけだ」と心に期し広島藩主・浅野長勲土佐藩士後藤象二郎説得するよう依頼した浅野その様はからうと「私は岩倉卿の論が事理の当然とします。いま(広島藩士)辻維岳命じ後藤説得させていますから、しばらくお待ちください後藤うなずきませんでしたら、私は飽くまでも土佐殿(山内容堂)に抗弁してやめませんから」と岩倉伝えた。五藩重臣休憩室で、後藤大久保山内説に従わせようとしていた。しかしすでに同じ休憩室にいた辻が、浅野指令をうけて「岩倉説に抗弁する主君山内容堂)に不利な結果になる」と遠回しに後藤諭していたこともあり、大久保はなんらききいれることがなかった。後藤それまで主君山内の説どおり、「会議参加者一同陰険なふるまいをやめ、公正にことを決める」よう一所懸命に全員諭しつづけてきていたが、主君間接的に命をおびやかされている事に悟ると、今度山内と春嶽の方を向いてさきほど殿が申されたまこと立派な説法は、さも内府公(慶喜公)がはかりごと企てていらっしゃることをご承知の上で、隠そうなさっているかのごとく嫌疑されております願わくばどうかもう一度考え直されますように」といった。明治天皇がすでに席に着き会議参加者あつまって議論再開されると、山内腹心後藤にも裏切られ心が折れてしまい、敢えてもう一度論戦始めようとしなかった。再開され議決では岩倉大久保らの説に決まり有栖川宮熾仁親王天皇裁可得た。 こうして朝廷は、内大臣慶喜官位返上と、領地からくる収入天皇家献上するよう命じた最終的に岩倉大久保らの意見通ったが、会津藩桑名藩など、親徳川派の譜代藩はこの処分に不満を募らせ一触即発剣幕となる。これら不穏な動静対し西本願寺・徳如上人が御所警固のため、六条侍および僧を参集させ尊王近衛団を結成。さらに征討総督宮の護衛錦旗守備諜報活動行った

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