小室ブームとは? わかりやすく解説

小室ブーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:52 UTC 版)

小室哲哉」の記事における「小室ブーム」の解説

詳細は「小室ファミリー」を参照 1994年TMN終了前後から、観月ありさ篠原涼子trfhitomi内田有紀H Jungle with tdosglobe華原朋美安室奈美恵など、多数作詞作曲編曲音楽プロデュース兼任して行った1994年から1999年の間に数々ミリオンセラーヒット曲打ち立て、各メディアにおいて小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象起こしたソニー・ミュージックエンタテインメント丸山茂雄小室プロデューサー活動支援するためにアンティノスレコード設立しマネジメント業務アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)に移管した。 プロデュース手法構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージック基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマン・レコード会社チェーンストア考え市場要求カラオケに通うファンニーズ応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対してサウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ戦略持っている」と感じ取り同時に数字クオリティ負けたくない」と悔しさもらしたビーイング長戸大幸プロデュース手法スティーヴン・スピルバーグ制作現場マネジメントの手法を参考にしたとされる実際に小室本人J-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージック基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽詳しくない一般に対して分かりやすいという特徴持っていた。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出行った1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニット結成して海外進出図った。小室ブームを迎え日本の音楽世界通用しない現実覆す試みとして開始されたが、日本国内絶大なブーム迎えた小室本人多忙により1996年終了している。 1995年から4年連続プロデュースした曲が日本レコード大賞受賞この頃から「提供する歌手本人一度会わないこともある、音にこだわればそれでいいその場限りの関係の単純な楽曲オファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲プロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いて構わないし、最初から最後まで見てくれてもいいアーティスト発売先・音色曲順タイトルお任せしますので好きにして構いませんレコーディング予算ジャケット写真PVポスター宣伝素材キャッチコピー取材を行う雑誌放送等のメディアプラン段階からコスト管理して版下チェックして下さいライブ内容スケジュール監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任オファー殺到するようになり、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社マーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し、「相手オファー内容分かりにくくなる」という理由から第三者通してやり取りはしない代理店スタッフ同伴してテレビ局スポンサーに対して直接ディスカッション売り込み行い要求呑みつつも「作り手直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし出来上がった作品に対してスポンサー断れないよう持って行った小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCM本数増やしてほしい」との思いから、テレビCM提供した楽曲著作権使用料一切受け取らなかった。 1996年1月から2月にかけて、スキャンダル報道過熱し複数レコード会社利害錯綜した創作活動複数営業窓口発生したCM等タイアップ活動マスコミ対策等、小室丸山対応できる範疇超えてしまい、仕事量膨大さと対処煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステム事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務エイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフ集められて、松浦リーダーとするチーム体制での新しマネジメントシステムスタートし同時期に制作・生活拠点ロサンゼルス移した。 この時点で、「タイアップ決まらないと曲を書かない」と公言する程 のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判目立ちだしたが、小室は「まずスポンサー気に入られて、初めて僕の曲になるんです」「プロミュージシャン売れることで、やっと自分好きな音楽ができるようになる自分好きな音楽よりも、売れ音楽優先して作らないと駄目」「聴いてもらえないということはポピュラー』の根幹関わる。『大衆迎合しすぎる』とか、『売ることばかり考えている』との批判聞くが、これは大衆音楽なのに」 と割り切った意見述べたMr.Childrenなどのプロデューサーとして知られる小林武史イニシャルが同じことから「TK時代」「ダブルTK」「哲武ミリオン時代」と呼ばれた小室は「仕事仕方は鏡に映る自分を見るようで、そっくりです。ただ小林さん男性ボーカル・ロック・バンド系をプロデュースする。僕は女性ボーカル・ダンス・打ち込み系をプロデュース対極にあるんです。この二つ互いに刺激し合ったおかげでお互いにミリオンヒット生まれたんだと思います」と語っている。 1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲トップ5を独占した1996年globeアルバムglobe」が当時オリコン記録更新し歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録安室奈美恵アルバム330万枚超え華原朋美アルバム250万枚超えるなど、この年だけでプロデュース曲総売上枚数は1,500万枚以上を記録した。さらに1996年から2年連続高額納税者番付において全国4位を記録1997年納税額は117000万円推定所得は約23億円だった。1996年末には海外進出狙いルパート・マードック組み100万ドル出資して香港合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した1997年スピード2テーマ曲リミックス手掛ける等の世界展開行った8月マネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメント戻し活動拠点アジア定めた。「インターネット駆使して他所との円滑なスタジオワークやり取り近況報告」「アジアマーケット新たな開拓米国へ浸透」「米国サウンドアジア持ち込み、『米国サウンド比べてアジアサウンドどうなのか?』というリサーチ繰り返しによる、アジアサウンド水準維持・向上」を目的にしていた が、後に「技術革新スピード読み違えてしまい、日本ヨーロッパ・アメリカ香港等、国毎にデータ転送速度通信環境などに格段の差があり過ぎてすれ違い起こってしまった」「『自分今まで築き上げたブランド成績求められている』と過大評価していて、現地リスナーシンガー密着して共に音楽の質を育てていく活動意識していなかった」「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオ逃げたかっただけだった」 と語っている。

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小室ブーム

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小室ファミリー」の記事における「小室ブーム」の解説

1994年から1997年3年弱、小室哲哉プロデュース楽曲オリコンチャートの上位を埋め尽くす現象発生したメディアはこれを小室ブームと評した

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