奥原家とは? わかりやすく解説

奥原家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:11 UTC 版)

なつぞら」の記事における「奥原家」の解説

なつの家族東京・日本橋料理屋営んでいた父は出征先の満州戦死。母は東京大空襲戦災死。暫くは幼い子供たちだけで生活するが、やがて各々違う場所で暮らすことになり、一家離散態となる。 奥原 なつ(おくはら なつ) → 坂場 なつ(さかば なつ) 演 - 広瀬すず幼少期粟野咲莉手元吹き替え丹羽弘美) 本作主人公1937年昭和12年8月15日生まれ。なつの心情を語る場面で広瀬ナレーション入れている。 戦争両親亡くしてからは、兄・妹と信哉とともに暮らし靴磨きをして収入得てきた。警察確保され生活していた浅草孤児院に剛男が訪ねてきて、一緒に北海道へ行く。 1946年昭和21年5月9歳時に十勝柴田家引き取られ牧場仕事しながら学校に通う。 兄から手紙返事来ず寂し気持ちから家出したこともあったが、自分本当思い素直な感情をぶつけ、柴田家人々優しさ触れ無事に戻る。 国民学校見たアメリカの漫画映画や天陽の描く絵に興味を持つ。 泰のことを誇り思い心から尊敬し慕っている。高校入学祝いもらった懐中時計宝物にし、大切にしている。 1955年昭和30年18歳になったなつは、剛男、富士子を「父さん母さん」と呼ぶようになり、十勝農業高校畜産科通って酪農について学びながら家業もよく手伝う。 農協加入問題で泰説得するために演劇部入部し表現をする難しさを学ぶ。 東京にいる陽平から天陽に贈られた絵の道具をもらい、絵を描き表現する楽しさ再認識する1955年昭和30年)の高校3年夏休み富士子上京し、信哉の協力もあり、浅草六区館で咲太郎再会する上京した際に、陽平アニメーター職場見学させてもらったことやディズニーファンタジア見たことでアニメーターになる夢を持つが、泰裏切ってまでアニメーターになるか、家業を継ぐか、苦悩する阿川弥市郎、砂良との出会いによってアニメーターになることを決意。泰家族アニメーターになるために東京へ行きたいという本当気持伝えた1956年昭和31年)の高校卒業後にアニメーターになるため上京しアニメーター採用試験合格するまでのあいだ「川村屋」に住み込み皿洗い仕事始める。6月の「東洋動画作画課アニメーター採用試験を受けるも不合格同年9月同社仕上課彩色採用試験合格東洋動画入社決まり亜矢美と咲太郎が住む店舗住居2階転居する12月に再び能力審査挑むが、不合格となる。 1957年昭和32年4月入社した社員と共に3度目となる能力審査挑戦し合格仕上課から作画課異動し新作わんぱく牛若丸』で動画担当する1959年昭和34年)に短編漫画映画制作決定したなか、柴田家現れた千遥に会うために咲太郎と共に北海道急遽帰省したが、会えずに終わる。帰省の際に結婚した天陽と4年ぶりに再会する。夕見子の言葉ヒントとする短編映画原作を『ヘンゼルとグレーテル』にした企画採用され初め作画担当する1963年昭和38年)、テレビ班異動し東洋動画制作テレビアニメ百獣の王サム』の原画担当1965年昭和40年)、再び映画班に戻り、坂場が演出をする『神をつかんだ少年クリフ』の原画担当同時期に映画成功することを条件に坂場からプロポーズをされ、承諾する翌年公開した『神をつかんだ少年クリフ』は不入りとなり、坂場から婚約破棄される。しかし、坂場のなつに対する深い想いから求婚をされ、なつも坂場への想い改め感じ結婚することを決める。 1967年昭和42年)、十勝次郎・夕見子夫妻合同で坂場との結婚式挙げ西荻窪一軒家借りて住む。 1968年昭和43年)に妊娠・出産長女・優を生むその後、今の仕事辞めよう悩んでいたが、天陽の絵を見て思い直し、「マコプロダクション」に移籍する。 『大草原少女ソラ』が放送開始してしばらくの後、二十数年振り生き別れた妹・千遥と再会奥原太郎(おくはら さいたろう) 演 - 岡田将生幼少期渡邉蒼) なつの兄。歌とダンスが得意で、終戦直後は、かつて浅草習ったタップダンスと歌を路上披露し喝采浴びていた。その際進駐軍からもらった物資闇市横流しして収入得て妹たちとの生活を支えていた。 12歳時に孤児院訪ねてきた剛男から、なつと共に柴田家世話になることを打診されるが、親戚預けた千遥のためを思い、なつだけを託す。 なつが柴田家引き取られてからほどなく孤児院出て新宿靴磨きをしていたところを浮浪児たちに襲われ亜矢美に保護される亜矢美が舞台に立つ新宿劇場ムーラン・ルージュ新宿座」で働くが、劇場倒産。母のように慕う亜矢美をもう一度ムーランルージュ」の舞台に立たせたいと願い再建持ちかける話に乗り光子保証人立てて10万円を借金。しかし詐欺判明し、金を返せ新宿から姿を消す1955年昭和30年)までなつに連絡入れることもなかったために行方不明扱いされていたが、信哉の調査ストリップ劇場の「浅草六区館」で働いていることが判明前座舞台立った際に、探し訪れたなつと再会したが、借金のことをなつたちに隠していた。松井から譲ってもらった時計借金返済ために質入れした時に盗品判明し逮捕されるが、ほどなく無実証明され釈放されるその後新劇劇団赤い星座」で舞台製作携わり看板女優亀山蘭子付き人務める。 1959年昭和34年)、「赤い星座」を辞めて外国映画吹き替えをするために蘭子らの声優派遣する風車プロダクション」を設立し事業始める。 人のためを思って行動起こすが、空回りをして周囲騒がせることがある1966年昭和41年)に、なつが坂場からプロポーズされるも映画失敗終わったことを理由婚約破棄されたことを知らされる激怒。「風車」へ謝罪訪れた坂場に怒りをぶつけるが、彼が本心をさらけ出し改めて彼女にプロポーズしたことから承諾した1967年昭和42年)になつが結婚したあと、光子結婚。それからしばらくして新宿再開発計画による立ち退きで「風車」の移転考えていることを亜矢美から明かされるが、その後亜矢美が「風車」を閉店し去って行ったことを知る。 岡田は「エンタメOVO」のインタビューで、咲太郎となつ兄妹は「男はつらいよシリーズ主役寅さんとその妹・さくらをイメージしていることを明かしている。 奥原 千遥(おくはら ちはる)(一時期杉山 千遥(すぎやま ちはる)) 演 - 清原果耶幼少期田中乃愛) なつの妹。終戦直後、咲太郎・なつと共に生活していたが、5歳時に千葉に住む母の従姉妹である川谷としの家に預けられた。その後、咲太郎手紙出したものの「(千遥に)里心がつく」との理由連絡接触断られ、さらに川谷家が転居したため所在不明となる。 1957年8月、信哉の尽力川谷家の転居先判り、なつと咲太郎船橋の家を訪ねたところ、12年前の6歳時家出し行方不明であることが判明する1959年夏、北海道柴田家現れ柴田家人々交流し東京のなつ・咲太郎電話越し言葉を交わすが、なつと咲太郎柴田家到着する直前忽然と姿を消す。その直後、なつと咲太郎宛て送った手紙で、家出後に通りすがり復員兵に連れられ東京行き置屋を営むなほ子に売られたこと、なほ子の養女になって大事に育てられたこと、18歳になり良家次男杉山清二との結婚決まって兄姉との縁を切るよう要請されたこと、自分だけが幸せになることを気に病み柴田家訪ねたことを告白する1973年昭和48年)、長女千夏を「マコプロダクション」へ連れて行き、その帰りになつと二十数年振り再会果たした神楽坂料理店の子」で働いている。料亭乃家」の親方でもある舅・春雄から料理仕込まれ調理師免許取得清二愛人作って家に戻らなくなったため、離婚決意。なつと咲太郎を「の子」へ呼び養母なほ子に2人会わせた上で杉山家家族過去の経歴全て打ち明けた離婚しての子」を辞めることをなほこに告げるが、離婚しても「の子」の女将続けて欲しいと頼まれ承諾した。 なつの父(声) / 語り 演 - 内村光良 出征前は日本橋小さな料理屋を営む料理人だった。 満州出征中に剛男と親しくなり「どちらか戦死したら、その家族残した手紙届ける」約束をした。絵が上手で、部隊では色々な似顔絵描いて慕われていた。 なつの母(回想) 演 - 戸田菜穂 なつたち3兄妹母親東京大空襲戦災にて亡くなった。 なつの父がかつて働いていた浅草の同じ料亭女中をしており、そこで知り合って後に結婚した

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