台湾地区
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台湾地区(たいわんちく)は、中華民国政府が1955年の大陳島撤退以降も引き続き実効支配している地域を指す、政治的な配慮を伴った法律用語。
自由地区(じゆうちく)とも呼ばれるほか、同義語として台澎金馬(たいほうきんば)があり、国際的に使用されている(詳細は下記参照)。対義語は、中華人民共和国の支配地域を指す中国大陸(ちゅうごくたいりく)あるいは大陸地区(たいりくちく)。
範囲
中華民国の法律である「台湾地区と大陸地区の人民関係条例」第2条第1項[1]では、台湾地区を次のように定義している。
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この定義は、中華民国教育部編纂の国語(標準中国語)辞典である『教育部重編國語辭典修訂本』[2]にも掲載されている[3]。
法律・辞典に書かれた「政府の統治権が及ぶ場所のその他地区」の具体的な範囲としては、中国大陸沿岸にある烏坵島と、南海諸島の島々(東沙諸島、南沙諸島の太平島と中洲島)が該当する。
なお、中華民国が領有権を主張している釣魚台列嶼(尖閣諸島)は、行政区分上台湾省に分類されているものの、日本が実効支配し中華民国の統治権が及んでいないため、定義上「台湾地区」に該当しないとしている。台湾地区の行政区画については、台湾の行政区分を参照のこと。
沿革
1945年10月25日、中国大陸を統治する中華民国国民政府は、第二次世界大戦に敗北した大日本帝国から台湾と澎湖群島を接収(台湾光復)し、台湾省として編入した。しかし、同時期に勃発した第二次国共内戦の結果、中華民国政府は中国大陸の支配地域を相次いで喪失し、1949年4月の首都・南京陥落と共に「中国政府」としての機能を果たせなくなった。中華民国政府は同年12月に中国大陸から台湾に移転したが、遷台後も中華民国は実効支配領域の喪失が止まらず、1955年の大陳島撤退でようやく現在の台湾地区が実効統治範囲として定まった[注 1]。
中華民国政府を台湾で再組織する際、中華民国の実効支配地域が劇的に縮小したにもかかわらず、蔣介石は基本的に中国大陸も支配していることを前提とした組織づくりを行った。これは、国共内戦が公式には終結していない状況下で、将来的に「反政府組織・共匪(中共)」[注 2]の「占領地域」(淪陥区)を武力で奪還(大陸反攻)する方針を政府が維持し続けたためで、政府機構のあり方と実効統治区域の乖離状態は一時的なものとして問題視されなかった。その後、アメリカの反対や中華人民共和国の核兵器保有といった情勢の変化を受け、中華民国政府は1972年に大陸反攻の計画を撤廃した。
しかし、1970年代以降も中華民国政府は政府組織の修正を行わなかったため、中華民国では政府組織を運営する上で様々な矛盾が蓄積していき[注 3][注 4]、蔣経国時代の1980年代には民主化と共に理想と現実の矛盾解消を求める声が大きくなっていった。
1988年に総統に就任した李登輝は、中華民国憲法を修正して政府組織を現状の実効統治範囲に適したものへ是正することにした。その際、中華民国政府の実効統治範囲を指す法律上の適切な呼称が今まで無かったため、名目上の中華民国全土とは別に中華民国政府の実効統治区域のみを指す概念として「自由地区」が生み出され、1991年の第1次憲法修正時に初めて法律上の用語として使用された。更に、1992年には自由地区と同じ意味を持つ「台湾地区」が、「台湾地区と大陸地区の人民関係条例」[5](中国大陸との民間の各種往来について定めた法律)内にて使用された。なお、単に「台湾」としなかったのは、中華人民共和国側から「一つの中国」原則の放棄と受け取られる恐れがあること、また中華民国政府側も、かつて中国国民党が主張した法理独立につながりかねないため、政治色(台湾独立を想起させる表現)を無くす意図があったからである。
同義語の使用状況
- 自由地区 - 中華民国憲法増修条文にて主に使用。
- 台湾地区 - 両岸人民関係条例等、両岸関係を規定する法律で主に使用。また、民間においても比較的通用する。
- 台澎金馬個別関税領域 - 一部の政府文献にて使用[6]される他、国際組織へ加入する際に「中華台北」と同様の中華民国を指す呼称としても使用[注 5]。これは、中華民国実効統治区域の主要な構成要素である台湾本島、澎湖諸島、金門島、馬祖島の頭文字に由来する。
- 台閩地区 - 一部の政府文献にて使用[8]。これは、中華民国の行政区域である台湾省と福建省(「閩」は中華圏で多用される福建省の略称)に由来する。
認識の差異
「台湾地区」の概念に対する認識は、政治的・思想的な立場の違いによって差異がある。
中華民国:現在の中華民国における二大政治陣営である泛藍連盟と泛緑連盟では解釈が異なっている。
中華人民共和国:「一つの中国」は中華人民共和国という発想のもと、中華人民共和国成立後の中華民国政府を非合法な存在とみなし、中国共産党率いる統一戦線が「人民解放戦争」勝利後も国民党蔣介石派[注 6]の残党勢力から「解放」できていない地域として使用する。「台湾地区」は中華人民共和国の領土を構成する中国の一地域である。
脚注
注釈
- ^ この内戦には公式な終戦日がないものの、1979年1月1日の米中国交樹立以降は中台両軍間で武力衝突は起きていない。中華人民共和国が時折「武力攻撃の可能性」について言及するものの、1990年代以降は中台両政府間の接触も起きており、民間の人的交流も活発化している。
→詳細は「中台関係」を参照
- ^ 中華人民共和国のこと。中華民国は自身が「中国唯一の正統な国家」であると認識しているため、中華人民共和国を国家と認めていない。
- ^ 立法院や国民大会等の組織は国民の直接選挙で議員を選出することになっているが、福建省の一部(「金馬地区」)を除いた中国大陸を「中共」に占領されたのでほとんどの選挙区で改選が不可能となった。政府は「大陸反攻」を達成するまで全面改選を行わない方針を採ったので、1940年代の第一回総選挙で選出された人物が1990年代の第二回総選挙まで議員の座に居座り、「万年議員」と揶揄された。
→詳細は「万年国会」および「中華民国立法委員選挙」を参照
- ^ 行政院傘下の蒙蔵委員会は、蒙古地方と西蔵地方の管理が主たる業務であったが、遷台後は台湾に住む蒙古地方(モンゴル)や西蔵地方(チベット)の出身者の保護や文化交流などの業務にあたるのみとなっていた[4]。
- ^ 中華民国は世界貿易機関(WTO)へ加盟する際に「台澎金馬個別関税領域」(Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu, 略称:TPKM)という名称で加盟している[7]。
- ^ 中国国民党のうち、容共を唱える一派は中国国民党革命委員会を結成し、中国人民政治協商会議に参加した。そのため、理論上は国民党も「新中国」建国に参加したことになっている。
出典
- ^ 臺灣地區與大陸地區人民關係條例(民國108年公布)(ウィキソース)
- ^ 中華民國教育部國語推行委員會編、教育部重編國語辭典修訂本
- ^ 「臺灣地區」の項
- ^ “台湾、モンゴル・チベット委を廃止へ 中国反発の可能性も”. 産経新聞. (2017年8月15日) 2024年11月24日閲覧。
- ^ 臺灣地區與大陸地區人民關係條例(民國81年公布)(ウィキソース)
- ^ 中華民國政府再次重申對臺澎金馬的主權地位 - 中華民国外交部
- ^ WTO | Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu - Member information
- ^ 臺閩地區各縣市最近五年營利事業家數增長情形統計表 - 中華民国財政部財政資訊中心
関連項目
台湾地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 03:23 UTC 版)
台湾では中秋節は重要な民俗行事であり、台湾の休日となる。月見しながら月餅やブンタン(文旦)を食べる習慣がある。地方文化としては、高雄市美濃区のにある客家(ハッカ)民族の集落では丸カモ(アヒル)を絞めて食べる習慣や、宜蘭では小麦粉を練って中に黒糖を塗って焼いた「菜餅」を食べる習慣がある。また、台湾南部ではおもちや火鍋を食べる風習もある。旧暦8月15日も「土地公」と「太陰星君」の誕生日で、当日に土地公と太陰星君は祀られる。土地公(福徳正神)は土地の守り神とされ、台湾の人々に広く親しまれている神様であると同時に、財神の役割も兼務し、土地公に五穀豊穣や商売繁盛や、家内安全までも願ってお祈りする。特に土地公にお餅をお供えする。もちもち、べたべたで、土地公が召し上がる時、長くて白い鬚に粘り着き、お金と幸運も序でに祈願者の身に粘着してきてもらう。台湾の農民は水田や畑のあぜ道で「土地公枴」という竹ざおを挿す。竹ざおをちょっと少し切り分け、クリップのようにウチカビと線香を挟んで、杖として、土地公に捧げる。 古くは太陽に対して、太陰と呼ばれる月を支配する神様は、太陰星君とうい女神である。一般的に不老不死の薬を盗んでぐっと飲み、月に昇る仙女、「嫦娥」とごちゃ混ぜになってしまったが、実際に関係がない。「月下老人」のような、太陰星君も縁結びの神様なのに、男女問わず良縁が求められることではない。昔ながら、男性は月に願って祀ることは許せていないから、月に向かって願い事を言うのは、女性専用儀式である。 1980年代中期から、中秋節の夜に屋外でバーベキューするという楽しみ方も増えている。その起源は諸説あるが、CMの影響や、お月見の最中に腹が減るからだと言われている。この習慣は、この年代の経済発展と生活の西洋化が、伝統的な風習まで影響を及ぼしたことを証明している。 嘉義で、中秋節の夕方の後、ブンタンを持ち、室内に居て、外に向かい、入り口の敷居で包丁でブンタンの頭の部分を切りながら、「ブンタンの頭を切り、盗賊の頭を切り」と唱え、泥棒が来ないように祈る。 博餅:台湾語はPo̍ah-piáⁿ「跋餅」である。跋はギャンブルという意味だ。鄭成功は満清王朝と厦門で戦っているところ、中秋節が来ると、部下や軍隊は家族と団欒できず、もっとホームシックになるので、博餅というゲームを発想して、皆楽しく遊んでいて、ホームシックを忘れたそうである。丼椀にサイコロを投げ、出た目の組み合わせによって、月餅は景品としてゲットする。主に離島の金門県で行い、台湾本土の一部地域もまだこの風習を守っている。 水汴頭澹仔火迎暗景:雲林県の崙背郷、二崙郷にいる詔安弁の客家語を話す客家民族は、中秋節の夜にたいまつ(トーチ)を持ち、町内を巡りの風習である。昔は防犯のため、パトロールしていたが、今はもうパレードになるイベントだった。 焼塔:日本のお火焚き祭りに似ている。離島の馬祖(連江県)で行う。軍事管理時期に、民間から夜の光を出すことは禁止され、一度絶えてしまったが、近年南竿郷の鉄板村で復活させた。レンガと瓦で組み合わせ、積み重ね、1~3メートル屋根が無い、井戸の形の塔が作り、上の口に可燃物を投げ入れ、燃えていた。古いことが去り、新しいことが迎えられるように願う。昔、捨てられた棺の板や便所の板など、竈(かまど)の燃料として燃えたら、不吉なので、中秋節の夜に集め、焼塔で燃やす。現代は、願い事や嫌なことを書いた短冊を塔に入れ、火を付け、燃やしていた。諸願成就や悪星退散や無病息災など願う。焚き上げられ、炎が立ち上る様子は圧巻である。炎が大きければ大きいほど、運勢が良いと言われる。
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