住友銀行主導の再建
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大幅赤字の事態を受けてメインバンクの住友銀行は、東洋工業が傘下に多くの下請け企業を抱え、また本社を置く広島を中心とした中国地方の経済に果たす役割の大きさを鑑み、東洋工業からの要請に応え、人材の派遣のほか緊急の融資を実施する方針を固めた。方針に基づき住友銀行は、本店事務管理部長であった花岡信平(のち同行副頭取)を、住友信託銀行は法人信託部長を東洋工業へ派遣し、両人は1975年1月の株主総会で取締役に選出された。以後、東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。 また住友銀行は、内外に東洋工業の支援を強力に推進していくことを周知するため、前頭取の浅井孝二を相談役に就任させ、広島出身で日本商工会議所会頭の永野重雄を最高顧問として招聘。更に大阪本店に東洋工業支援の専担部署として融資第二部を新設した。一企業支援のための専任部門を設置したことは住友銀行において初の試みであり、管掌役員には副頭取であった磯田一郎が就き、部長には常務本店営業部長であった巽外夫が就任した。そして行内から選抜された精鋭が不眠不休で経営実態の洗い出しに取り掛かったところ、米国市場もさることながら国内の有力な販売店による融通手形の乱発が発覚。その処理には難儀したと巽は語っている。 その間にも東洋工業の業績はさらに悪化していた。1976年1月には難局打開のため、住友銀行は村井勉常務(のち同行副頭取、アサヒビール社長、JR西日本会長)を副社長として派遣した。さらに住友グループ以外の銀行、商社にも役員の派遣を要請し、万全の支援体制を構築した。副社長として着任した村井は、経営の刷新と大規模な組織改革ならびに社員教育の必要性を痛感する。また同時期に巽は、大幅な合理化を実施するにあたって知恵を借りようと小松製作所を訪ね、河合良一社長から合理化策の指導を受けた。その教えを実践するため同年5月、東洋工業本社にコントロール部を新設。責任者には後に社長となる山崎芳樹を起用した。 住友銀行は東洋工業の将来にわたるグランドデザインの策定を急いだが、単独での生き残り不可能であるとの結論に至り、開発したREの周辺特許を公開し、それを武器に他社との交渉に入ることとした。これに基づき、磯田が花井正八や、豊田章一郎などトヨタ自動車首脳と断続的に会談したが、色よい返事を得ることが出来なかった。その後通商産業省(現・経済産業省)が日産自動車に東洋工業との提携を持ち掛けたが、日産側は東洋工業の財務内容に懸念を抱き、提携は成就には至らなかった。このほか住友銀行は三菱自動車との交渉に入るが、磯田が住友銀行の意向を通産省に伝えると、「業務提携とはいえ、既に外資(クライスラー)と提携している企業との結びつきは好ましくない」との応答があり、三菱との提携も流れた。この間、松田耕平社長は独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いたが、GMとの提携は米国の独占禁止法上の問題から無理との調査結果が住友銀行の調査でも明らかとなり、これも沙汰止みとなった。 トヨタ、日産、三菱等、国内自動車会社との提携は困難であると認識した時点で、住友銀行は外資との提携を企図し、過去に資本業務提携は頓挫したものの、1971年6月、業務提携を結びボンネットトラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択し、1977年7月に前月末に頭取に昇格した磯田が「東洋工業はフォードとの提携強化を望み、その際には住友銀行も主力銀行として全面的に支援する」のヘンリー・フォード2世(英語版)会長宛の親書をしたため、巽外夫に託した。親書を託された巽は渡米。フォードの海外事業担当であったドナルド・ピーターセン(英語版)副社長やフィリップ・コールドウィル(英語版)執行副社長らと交渉を行った。また巽は米国の独占禁止法抵触問題で交渉が滞った際には、ワシントンD.C.に出向き、米国連邦取引委員会(FTC)委員と個別に面会し説き伏せ、また流暢とはいえない英語を駆使して自ら証言台に立つなど奔走した。 フォードとの交渉の渦中、村井東洋工業副社長は、松田耕平が社長の座から退くことなしに会社の本格的な再建は進まないと思慮し、辞任を迫った。また永野重雄からも辞任を促され、業績不振の責任を取る形で、1977年12月に松田耕平は代表権のない取締役会長に退き、後継には村井の推挙によって山崎芳樹専務が昇格した。これにより55年以上続いた松田家による同族経営が終焉した。 一方、傘下のプロ野球球団・広島東洋カープに対しては、東洋工業は筆頭株主として資本関係を継続したが、企業としての経営関与が弱められ、事実上の松田家による独立経営となった。 村井は新経営体制の始動に際して、集団指導体制の確立と大幅な権限委譲を目的に、常務会、社長室を設けたほか、研究開発体制も改編し車種別責任体制を導入した。また人材育成の観点から工場の近接地に、大規模な研修センターの建設を提案。その完成したセンターでは新人や中堅社員に加えて販売店社員の社員教育も実施させた。このほか組合の猛反発を受けながら約5千人の社員を国内の販売店に2年間にわたりセールスマンとして出向させる施策を断行した。さらに自らも先頭に立ち、マツダの国内販売店を回り、地方に赴いた時には地方銀行を訪れ、旧知の頭取に車の購入を懇請し、東京の法人が弱いとわかれば上場企業巡りに勤しんだ。 1978年に入り、フォードと東洋工業の接触は頻繁となり、同年2月にはフォードが公認会計士を含む財務担当者を中心とするプロジェクトチームを編成。メンバーは東洋工業本社へ派遣され、約1ヵ月広島に滞在し、経営実態の洗い出しを行い、グループ全体における財務等の全貌の解明に努めた。翌1979年明けと共に交渉は大詰めを迎え、フォードの資本参加の方法が主題として議論された。そこではフォードの出資における負担軽減を図る術として、住友銀行融資第二部次長の発案による東洋工業がフォードの在日子会社のフォード・インダストリーを吸収合併するという方法が創出された。これによって実質休眠会社である同社の資産を活用し、フォードが米国から持ち出す資金は絞り込むことが出来た。同年2月、住友銀行の米国現地法人であった加州住友銀行の新頭取就任パーティーに出席することを名目に磯田は渡米し、その合間を縫ってディアボーンのフォード本社を訪れ、フォード2世と会談した。このトップ会談によってフォードと東洋工業の資本提携は事実上成立した。 1979年5月18日、提携に関するスクープ記事が掲載されることが判明したため、予定期日より早めてフォードが東洋工業の株式20%を購入する可能性について交渉していると発表し、翌日に東洋工業が緊急役員会を開催した。その後記者会見を開き、山崎社長が既にフォードと資本提携することで合意しており、米国FTCに届出書を提出したと発表した。こうして同年11月1日に、両社の提携はフォードが25%出資することでスタートした。1980年1月、村井副社長が住友銀行に復帰し、代わって岩澤正二副頭取が東洋工業会長として派遣された。 1978年3月、村井副社長から「ポルシェの半額のスポーツカーを作れ」と指示を受けたRE研究部が、RE車であるサバンナRX-7を完成させ、発売した。同車はアメリカ市場にも投入され、世界で大ヒットとなる。さらに1980年には、20代の技術者らが中心になって具現化したハッチバック式の「ファミリアXG」が発売された。斬新なデザインと圧倒的な燃費の良さに加えて、手頃な価格が話題を呼び、当時の若者らに圧倒的に支持されヒットし、その年の第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。続いて1982年に発売された新型カペラも大ヒット。同車も第3回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。これら車種の販売が好調に推移したことや、フォードとの資本提携が下支えとなり、東洋工業の業績は回復。7期連続で増収増益を樹立し、勢いに乗って米国で単独での車の現地生産を開始した。
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