住友金属、鹿島アントラーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
「ジーコ」の記事における「住友金属、鹿島アントラーズ」の解説
鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と激怒するなど、日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心していた。1991年7月26日の磐田市長杯サマーサッカー、ヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると、8月18日のJSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決めた。1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めた。 1993年のJリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗、帰国後、カシマスタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコはカシマスタジアム第1号となるゴールを決め(自身の現役通算800ゴール )、勝利した。迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した。2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。セカンドステージでは9月3日のジェフ市原戦での延長Vゴールなど、13試合6ゴールの成績を残し、天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた。しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった。 1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日のサンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、6月8日の浦和レッズ戦、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決めた。現役最後の公式戦となった6月15日のジュビロ磐田戦では直接FKを蹴り、これがバーに当たり1点目のゴールが生まれ、前半21分に相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴール目となる決勝ゴールを決めるなど 怪我を押して後半11分までプレー 、最後の3試合で3試合連続ゴールを決めたこととなった。試合後には磐田サポーターからもジーココールが続いた。7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場 したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1994年秋にはジーコカーニバル(引退記念イベント)の一つとして、カシマスタジアムで行われた、ロベルト・リベリーノ監督が率いたJリーグ選抜対アントラーズの試合に出場した。1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。 プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いていた。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。
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