住友金属時代
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詳細は「住友金属工業蹴球団#鹿島アントラーズ設立の経緯」および「オリジナル10#選定の経緯」を参照 1947年創部の住友金属蹴球同好会(1956年に住友金属工業蹴球団へ改称)が前身となり、1973年に日本サッカーリーグ(JSL)2部、1985年にJSL1部へ昇格した。なお、1975年に大阪市から鹿島製鉄所のある茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)に本拠地を移転した。 1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化したのを受けて、1990年に住友金属工業(現・日本製鉄)の「2000年ビジョン」の指針が発端となって、鹿島町長を含めた7名が当時JSL2部に所属していた住友金属工業蹴球団のプロリーグ参加を協会に要望した。これを受けて住友金属はプロリーグへの参加を申請するが、当時の住金蹴球団は日本サッカーリーグ (JSL) 2部所属であり、設立準備メンバーの一人であった川淵三郎が「住友金属さんが加盟できる確率はほとんどゼロなのです。99.9999%無理ですよ」と述べるほど参入の可能性は低かった。しかし、川淵の(住金の参加を諦めさせる最後の手段であった)「観客席に屋根の付いた1万5000人収容のサッカー専用競技場を建設できるなら考えましょう」の発言 を受けて茨城県が茨城県立カシマサッカースタジアムの建設を決定。これが逆転打となって初年度からのJリーグ加盟が承認された。 1991年、ブラジル代表で主将を務めたジーコが加入(川淵三郎によると、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。 Jリーグ発足に伴い、クラブ名を「鹿島アントラーズ」に変更。Jリーグ最初の公式戦、1992年のJリーグカップではカシマスタジアム建設中であったため、鹿島主管試合を笠松運動公園陸上競技場を主として国立霞ヶ丘競技場陸上競技場、西京極スタジアム(西京極での試合はガンバ大阪が相手であった)で行った。
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