住友財閥における住友家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:14 UTC 版)
住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降のそれは「君臨すれども統治せず」の立場をとった。財閥本社社長たる歴代吉左衛門の仕事は、究極的には財閥の事実上の最高権力者である住友本社(住友合資会社)総理事の信認に尽きるといってよく、個々の事業に口を差し挟むことはなかった。また、16代目吉左衛門友成の兄弟である寛一・元夫は住友本社の株主ではあったが、本社はもちろん傘下事業の役員にも名を連ねることはなかった。この点では三井家や岩崎家と対照的と言える。 この傾向は実は江戸時代から存在していたが(当主が幼少、病弱その他の理由などで、経営に関わらなかったケースが多く、実権はいわゆる「大番頭」が握っていた)、明治に入ってからは、会社法が整備され、他方で旧公家徳大寺家出身で実業家としての経験がない友純が当主となり、一層顕著になった。 ただし、三井財閥のように、財閥家族と財閥本社役員及び傘下企業の間に一種の緊張関係があったわけではなかった。吉左衛門を「家長様」と呼んでいたことに象徴されるように、上は総理事から下は一般社員までに至る吉左衛門に対する敬愛の念はすこぶる高く、歴代吉左衛門もまた、一方では文化事業を通じて住友の名を高め、他方では家長・財閥本社社長として企業モラルの引き締めの任に当たっていた。
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