頭取就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:33 UTC 版)
1975年(昭和50年)5月、佐々木邦彦頭取の後を受け、頭取に就任する。雷門事件の苦い経験を踏まえ、サウンド・バンキング・ポリシーの徹底のため、検査部の強化を図ったほか、富士銀ファクターの設立、カードローンの取扱の開始、現金自動預け払い機の設置、オンラインシステムの構築などの新基軸を続々と打ち出した。78年4月、全銀協会長に就任し、金利自由化の第一歩として譲渡性預金(CD)の創設に取り組み、創設を審議する金融制度調査会では殆どの委員が反対する中、松沢が徳田博美大蔵省銀行局長などを説得し業界をまとめ上げ、CDは創設にこぎ着けている。 松沢の頭取就任に先立って、71年10月に第一銀行と日本勧業銀行が合併し第一勧業銀行が誕生した。第一勧銀の発足によって、富士銀行は資金量日本一の座を失った。松沢は「数年で抜き返して見せる」と豪語し、頭取になって間もない頃から都銀懇談会を一緒に作り、懇意な三和銀の赤司頭取と合併に向けた話し合いを始め、間もなく、端田泰三常務(のち頭取)に先方との交渉を任せ、作業は順調に進んだ。しかし、三和のドンであった日本銀行出身の渡辺忠雄相談役名誉会長が合併に反対したため、合併話は流れた。
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