デビュー〜アイドル全盛期とは? わかりやすく解説

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デビュー〜アイドル全盛期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:42 UTC 版)

郷ひろみ」の記事における「デビュー〜アイドル全盛期」の解説

高校一年のとき家族日比谷映画を観に行った帰りフォーリーブスマネージャースカウトされ、彼らの合宿所出入りするうちジャニーズ事務所所属となった。――とされていたが、実際は、オーディション落選した潮騒」の会場出会ったジャニーズ事務所社長ジャニー喜多川惚れ込まれスカウトを受け、超VIP待遇ジャニーズ事務所所属となったことが2020年本人談で明かされている。フォーリーブスバックダンサーとして出演して多くファン獲得する芸名は、事実上の初デビューとなった北海道旭川市のフォーリーブスファンからの声援レッツゴーひろみ」から借名して「郷ひろみ」になり大阪ファンクラブ発足するフォーリーブス弟分として活躍し発展するよう4より多い5(ゴー)から「郷ひろみ」と芸名付けられた。 1972年1月2日NHK大河ドラマ新・平家物語』に平清盛の弟、経盛役で俳優デビュー(現在までNHK大河ドラマ合計4作品出演) する。4月3日 - 9月25日フジテレビ系森田健作主演青春ドラマ青春をつっ走れ』と『あしたに駈けろ!』に連続して出演する8月1日CBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント所属歌手としてデビューする。 9月25日デビュー曲男の子女の子」がオリコン週間チャートベストテン入り果たし11月には第14回日本レコード大賞新人賞受賞する1973年ブロマイド年間売上実績No.1となり、西城秀樹野口五郎と共に新御三家呼ばれ一躍トップアイドルの仲間入りを果たす。11月20日、「裸のビーナス」で第4回日本歌謡大賞放送音楽賞受賞12月2日には「小さな体験」で第6回日本有線大賞大衆賞受賞する12月31日第24回NHK紅白歌合戦初出場し、前年デビュー曲男の子女の子」を歌う(以後1985年まで13年連続出場する)。 1974年10月28日、初主演テレビドラマちょっとしあわせ』の主題歌よろしく哀愁」で、自身初のオリコン週間チャート第1位獲得する1975年4月1日ジャニー喜多川からの過度な寵愛反発しジャニーズ事務所退所大手など選択肢があった中、設立4年目バーニングプロダクション選択して移籍6月6日 - 9月26日主演TBSテレビドラマあこがれ共同隊』で、同年ブロマイド年間売上実績No.1西城秀樹桜田淳子共演する1976年、『さらば夏の光よ』で映画主演する11月、「あなたがいたから僕がいた」で第18回日本レコード大賞大衆賞受賞する1977年TBSテレビドラマムー出演コミカルな一面注目され、再びブロマイド年間売上実績男性部門No.1となる。 1978年8月10日TBSテレビドラマムー一族』の挿入歌林檎殺人事件」が『ザ・ベストテン』自身初の第1位獲得する1979年4月 - 1980年4月日本テレビ系バラエティー番組カックラキン大放送!!』に野口五郎と(以降1年交替レギュラー出演する。8月、『明星』「アイドル人気投票」で7年連続で1位獲得し日本テレビ音楽祭・トップアイドル賞を受賞する11月15日 - 12月13日TBSテレビドラマ家路』の挿入歌マイレディー」が『ザ・ベストテン』で5週連続1位を獲得する1980年7月21日新御三家で初のCMソングとなる「How many いい顔」が発売される1981年12月6日、「お嫁サンバ」で第14回日本有線大賞有線音楽賞受賞する1982年7月17日外国曲カバーで、自身初のスロー・バラード哀愁のカサブランカ」が発売され、「よろしく哀愁以来2度目売り上げ50万枚超(オリコン週間チャート第2位)のヒットベストテン番組賞レースへの出演辞退する1984年2月25日日本国有鉄道キャンペーン・ソング2億4千万の瞳」が発売され20万枚超のヒットサブタイトルは「エキゾチック・ジャパン歌詞にある「ジャパ〜ン」という表現が郷を形容するのに使われるようになった1985年1月交際していた松田聖子破局会見を行う。9月には二谷友里恵出会う

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デビュー〜アイドル全盛期

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郷ひろみ」の記事における「デビュー〜アイドル全盛期」の解説

デビューのきっかけは、15歳時に近所女性東宝映画潮騒』の出演者募集応募したこと。審査会場のある銀座買い物がしたいという安易な気持ちオーディションを受けることを決めたが、会場に向かう途中で怖気づき「やっぱりやめる」と母親告げたところ「それでも九州男児か!」と激励し仕方なく会場赴いたという。結果オーディション不採用だったものの、審査員として参加していたジャニーズ事務所社長ジャニー喜多川の目に留まりスカウトされた。 デビュー当時母親原宿美容院経営していた。福岡県糟屋郡志免町母親実家祖父母が「ひろみ」の焼印がされた紅白の「ひろみ饅頭」の製造販売始め、後に叔父叔母経営する御菓子ひろみ」に引き継がれた(2015年頃に閉店)。 デビュー前フォーリーブス旭川公演バック出演し「ひろみです!」と紹介され会場から「Go! Go! Let's Go Hiromi!」と声援を受け、そのまま芸名郷ひろみとなる。また「郷」にはフォーリーブスの弟「5人目フォーリーブス」という意味もかけている。可愛らしいルックスと鼻にかかった歌声が、若い女性人気博しファンによる親衛隊誕生した1974年10月ドラマちょっとしあわせ』で、共演高沢順子とのキスシーンが騒動になる。ファンから局側に脅迫状殺到急きょ寸前カット釈明試写開いて対応した1976年日本レコード大賞ノミネート会場予選会)でキャンディーズとの決選投票辛勝し、『あなたがいたから僕がいた』で第18回日本レコード大賞大衆賞受賞決定した際、感極まって歌が歌えないほど号泣したレコード大賞では、新人賞本選出場して以来受賞であったこの年は、投票様子リアルタイム中継していた)。 『アイドル水泳大会』では競泳など多く競技出場し、特にフジテレビ番組では『ミスター水泳大会』と呼ばれた同じく参加していた西城秀樹と常に競い合い番組盛り上げていた。郷は水泳競技だけではなく水着や体のラインまでライバル心を滾らせていたという。 1977年、郷の特徴良く似た人形販売する業者を、肖像権侵害民事提訴する史上初の有名人人形に関する肖像権訴訟であり、1980年5月勝訴和解する1981年『8時だョ!全員集合』で、中畑妊娠コント話題になる1982年から洋楽バラードカヴァー次々と発売しアイドル歌手から大人魅力持った本格派歌手への脱皮を図る。その洋楽カバー哀愁のカサブランカ」は初めてのスロー・バラードシングル曲であり、「よろしく哀愁以来自身2度目50万枚突破記録した哀しみの黒い瞳ロマンス禁じられた遊び〜、シャトレ・アモーナ・ホテルなどフリオ・イグレシアスの曲も歌ったまた、ニューヨークでボイストレーニングを受け、ブレス使いで力まずに声を出す手法会得しスロー・バラードをじっくり聞かせられるまでに歌唱力アップする1984年2月25日リリース2億4千万の瞳』は国鉄キャンペーン使われた。2007年にはこの曲をアレンジしたものがBSデジタル放送3000万突破記念キャンペーンソングとして用いられている。 新御三家 新御三家となった経緯に関して野口五郎は「僕がデビューし翌年にひろみと西城秀樹デビューしたが、秀樹がちょっと出遅れた。秀樹事務所秀樹と他の2人新御三家というキャッチフレーズデビューしたが、西城マネージャー別事務所のひろみと僕を合体させて新御三家にした。 事務所も違うので番組などでぶつけ合ってファン獲得をした」 事務所移籍 1975年春、ジャニーズ事務所からバーニングプロダクション移籍。このジャニーズJr.6人も伴う移籍騒動で、ジャニー喜多川社長体調を崩すほどショック受けたそうである。この移籍関しバーニング当時の社長であった周防郁雄が「郷がジャニーさんとトラブルになったらしい。」との噂は聞き、郷がどのような経緯辞めたのかよく知らないが、まだ移籍先決まっていない郷を「ぜひうちでやりたい」との思いがあり、渡辺プロダクション渡辺晋と、田辺エージェンシー田邊昭知仲介役とし、渡辺自宅にてジャニーズ事務所メリー喜多川話し合った。そこでメリーに「私に(郷ひろみを)やらせてください」と頼んだところ、メリーより許可得て移籍となったフォーリーブス江木俊夫書の中で、「ジャニーズ事務所最大利益与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想アイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。 夜のヒットスタジオ 1972年、「小さな体験」で初出演したフジテレビ系夜のヒットスタジオ』は、ジャニーズ事務所当時存在していた「アイドルを夜の番組にはあまり出演させたくない」との方針から新御三家の中では出演機会少なかったが、バーニングプロダクション移籍後原則として1回ペース出演するうになる1982年ランキング番組出演辞退の後もトリつとめたり過激かつ派手な演出用意されるなど厚遇受けた1972年から1990年6月27日までの総出回数175回。 ランク付拒否 1979年、「くれる物は戴きますが、今後授賞式には参加しない。」と『日本レコード大賞』・『日本歌謡大賞』などの音楽賞への出演辞退することを公表する数年後インタビューで「年々権威落ちていく音楽賞には興味がない。」と語った。ただし『日本有線大賞』には出演し賞を受けているほか、1999年には日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞打診を受けると、大衆賞取った1976年以来23年ぶりにそのステージに立ち、ヒットメドレーを披露した1982年8月、「哀愁のカサブランカ」で「もういちど思春期以来10か月ぶりに『ザ・ベストテン』ランクインするが、「自分にとっては自分自身の歌は全部1番、他人に自分の歌のランク付けされるの賛成しかねる。」という理由で、『ザ・ベストテン』、『ザ・トップテン』等、音楽に関するランキング番組出演をすべて拒否する当時、郷の音楽プロデューサーだった酒井政利は、雑誌『KAMZINE』(2005年6月号)で一連の辞退について触れ、「郷は新御三家として括られるのも好きでなかったし、アイドル的な定型から脱皮したいと思っていた。そして、"自分は人とは違うんだ!"という差別化戦略選んだ。」と、戦略挑戦ひとつだったことを明かしている。

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