デビュー〜全盛期(1981年 - 1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:37 UTC 版)
「モトリー・クルー」の記事における「デビュー〜全盛期(1981年 - 1991年)」の解説
1981年、ロサンゼルスのクラブシーンで活動していたバンドLondonから脱退したベーシストのニッキー・シックスは、自らのバンドを結成するべくSuite19のドラマー、トミー・リーを誘い、さらに雑誌広告を見てWhite HorseやVendettaなどの多くのローカルバンドでプレイしていたギタリストのミック・マーズと連絡を取る。ヴォーカリストにはRockandiのヴィンス・ニール(トミーの高校時代の友人でもあった)をマーズが気に入り、1度目のオーディションはすっぽかされたが2度目のオーディションを経て加入した。 バンド名はマーズのアイデアMottley Cruをニッキーが少し変えてMötley Crüe(同じ発音のmotley crewには「寄せ集めメンバー」の意味がある)と決定。 4月には自主制作シングル 'Stick Your Guns / Toast Of The Town' をリリース。12月に同じく自主制作による1stアルバム "Too Fast For Love" を発表。この頃からドラッグ、アルコール漬けの日々を送っており、ヴァン・ヘイレンのデイヴィッド・リー・ロスやラットのスティーヴン・パーシー、ロビン・クロスビーらと共に自堕落なパーティを繰り広げていた。 1982年、メジャーレーベルのエレクトラと契約、7月に"Too Fast For Love"をリミックスしなおし再リリースした。かつてのグラム・ロックのような派手なメイクにヘアスプレーで膨らませた髪、レザーのステージ衣装、ステージパフォーマンスなど、彼らのスタイルは多くのフォロワーを生み出しLAのサンセット・ストリップを中心として若者たちにファッションや音楽を含めた一大ムーブメントが生まれることとなった。日本ではこれを「LAメタル」と呼んでいる。 1983年3月にキッスのサポートとしてツアーするも、ドラッグ・アルコール癖の酷さを理由にわずか数公演で外される。 同年5月、『USフェスティバル』にヴァン・ヘイレン、オジー・オズボーン、スコーピオンズらと共に出演。この頃のステージ衣装は映画『マッドマックス2』や『ニューヨーク1997』からヒントを得たものだった。同年9月、2ndアルバム "Shout At The Devil" を発表。タイトル曲、ペンタグラムの描かれたアルバムジャケットから「彼らは悪魔主義だ」とPMRCから名指しで批判されたが、バンドはこれを否定(ジャケットは後にメンバー4人の写真に変更)。アルバムは全米チャート最高17位を記録、プラチナムを獲得した。 1984年1月からオジー・オズボーンのサポートとして全米ツアー。 4月からはサクソン、ラット、アクセプトなどをサポートにヘッドラインツアー。 この頃ニッキーは友人であるラットのロビン・クロスビーと共同生活を始め、共にドラッグに溺れる生活を送っていた。 8月、イギリスのドニントンで行われた『モンスターズ・オブ・ロック』にオープニング・アクトとして出演。10月、アイアン・メイデンのサポートとしてヨーロッパ・ツアー。 12月8日、ヴィンスが飲酒運転で起こした交通事故によりハノイ・ロックスのドラマーであるラズル (Razzle (musician)) が死亡。ハノイ・ロックス解散の原因となる。 1985年1月、ヴィンスが裁判所の命令でアルコールのリハビリセンターに30日間入所。 6月、3rdアルバム"Theatre Of Pain"発表。このアルバムは全米チャート最高6位を記録しプラチナム獲得。ステージ衣装はスパンコールをちりばめたグラマラスなものになりバンド・ロゴも一変した。(これ以降バンド・ロゴはアルバム発表ごとに変わっていく) この頃よりデビュー前から手を染めていたメンバーのドラッグ・アルコール問題が深刻になる。特にニッキーのドラッグ中毒は深刻でヘロイン、コカイン等に金と時間を費やしていた。当時は数グラムのコカインが5000ドルにもなるほど高騰していたという。ロンドンでのライブでは途中で意識を失うこともあった。 また、同ロンドンでドラッグディーラーの家でドラッグを摂取している際に意識を失い、死亡したと思われたためにゴミ箱に捨てられていた、とニッキー本人が語っている映像がある。その頃の状態は後にニッキーが「ヘロイン・ダイアリーズ」として発表する。 7月には初の来日公演。続く全米ツアーではY&Tがサポート。ツアー後半のサポート・アクトは日本のラウドネスが勤めた。 1986年5月、トミーが女優のヘザー・ロックリアと結婚。(1993年に離婚) 6月、ヴィンスが前年起こした事故のため入獄(模範囚として19日後に出所)。 1987年5月、4thアルバム"Girls, Girls, Girls"発表。メイクをやめステージ衣装もレザーを基調にしたワイルドなものになり、このアルバムは全米チャート最高2位を記録。ワールドツアーではバック・コーラスに女性デュオ「ナスティ・ハビッツ」(ドナ・マクダニエル&エミ・キャニオン:1990年にマーズと結婚、1993年に離婚)を帯同、トミーは360度回転するドラムセットで演奏。「ハイ・エナジー、ロー・IQ」と称されていて、本人も苦笑しつつ認めていた。ツアーのサポートは6月からホワイトスネイク、11月からはガンズ・アンド・ローゼズ。 12月に2度目の来日公演。 12月22日、ニッキーがラットのロビン・クロスビー、ガンズ・アンド・ローゼスのスラッシュらとのドラッグ・パーティーの途中、過剰摂取により心臓が一時停止してしまう。 1988年1月、マシュー・ジョン・トリップなる男が「怪我をしたニッキーの代わりにベースを弾いていた、その間の報酬が支払われていない」と発言し、バンドとマネージメントを訴え裁判となるが、バンド側が勝訴(当時、ニッキーが車の運転中に意識を失って事故を起こし、鎖骨を骨折してしまった事故があり、しばらくの間、楽器を演奏することが出来ない時期があったという背景あり)。 1989年8月、ボン・ジョヴィ、オジー・オズボーン、スキッド・ロウ、スコーピオンズらとともに当時のソビエト連邦首都モスクワで行われた『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』に参加。 9月にはメンバー全員がドラッグを絶ち、初めて正常な状態で制作された5thアルバム"Dr.Feelgood"を発表。エアロスミスのスティーヴン・タイラー、スキッド・ロウ、ブライアン・アダムスらがゲストとして参加したこのアルバムは遂に全米チャート第1位を記録し、アメリカだけで700万枚以上のセールスを記録した。収録曲の「ドクター・フィールグッド」と「キックスタート・マイ・ハート」はグラミー賞のベスト・ハード・ロック・パフォーマンスにノミネートされるも受賞は逃している。10月からのワールドツアーでは、ヴィンスは白衣を羽織りナスティ・ハビッツはナース姿で歌い踊り、ナース姿の観客も見られることもあった。トミーのステージ衣装は、ほぼTバックの黒のレザーブリーフ一丁というものであった。(サポート・アクトはホワイト・ライオン、スキッド・ロウ、ウォレント、ファスター・プッシーキャットなど) ツアーが始まる直前、出演した『MTV Video Music Awards '89』のバックステージでヴィンスがガンズ・アンド・ローゼズのイジー・ストラドリンに対し、ヴィンスの妻を侮辱されたとして殴り倒す。この話を聞いて激昂したアクセル・ローズがメディアを通じてヴィンスを挑発。ヴィンス自身もメディアにてアクセルに決闘の申し込みをしていた、日時、場所を指定しそこで決着を付けようと持ちかけるが実現はされたという報道はない。 1990年5月に3度目の来日公演。ニッキーがプレイメイトのブランディ・ブラントと結婚(1996年離婚)。 1991年8月、再び『モンスターズ・オブ・ロック』に出演。ヘッドライナーのAC/DC、この年に全米No1アルバム "Metallica" を発表していたメタリカの前の演奏だった。この年10月に結成10周年を記念したベストアルバム "Decade Of Decadence" 発表。全米チャート2位を記録。
※この「デビュー〜全盛期(1981年 - 1991年)」の解説は、「モトリー・クルー」の解説の一部です。
「デビュー〜全盛期(1981年 - 1991年)」を含む「モトリー・クルー」の記事については、「モトリー・クルー」の概要を参照ください。
- デビュー〜全盛期のページへのリンク