シンガー日鋼
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シンガー日鋼株式会社(シンガーにっこう)とは、かつて日本においてシンガーブランドのミシンやショットガンなどを生産していた日本の株式会社。2000年に解散した。
概要
本社および工場を栃木県宇都宮市下平出町950番地(現在の宇都宮市陽東6丁目)に置いていた。資本金は640,000千円、日本製鋼所と米国シンガー社がそれぞれ株式の半数を所有する合弁会社であった。
歴史
シンガー日鋼はもともと1943年(昭和18年)に日本製鋼所宇都宮製作所として栃木県河内郡平石村(現・宇都宮市)に約30万坪の敷地面積で設置され、大東亜戦争中は中島飛行機向けの軍需部品を製造する軍需産業の工場として稼働していた[1]。日鋼宇都宮製作所は大戦末期、宇都宮大空襲で壊滅的な被害を受け、日本の敗戦と共に軍需産業としての機能は解体。その広大な敷地は宇都宮市立陽東小学校、宇都宮大学工学部、宇都宮市立陽東中学校にそれぞれ分配され、敷地面積は約7万坪となる[2]。日鋼宇都宮製作所は、敗戦直後の1945年(昭和20年)10月より平和産業の一環として家庭用ミシンの製造に着手[3]、1949年(昭和24年)11月には企業再建整備法による日本製鋼所の経営再建策の一環として、宇都宮製作所が日本製鋼所から分離される形でパインミシン製造株式会社が発足[4]。戦中、兵器や軍需品の製造に携わっていた基礎技術力の高さから、パインミシン製造の家庭用ミシンはその品質の高さで連合国軍占領下の日本におけるMade in Occupied Japan銘の輸出品として、顕著な実績を残した[5]。
なお、パインという商品名自体は蛇の目ミシン工業の前身企業である「パイン裁縫機械製作所[6]」の商品名[7]でもあり、両者には直接的な関係性は無いが、パインミシン製造、蛇の目ミシンは同業他社(日本ミシン製造、東京重機工業など)と共同で国産家庭用ミシンの統一規格であるHA-1型[8]の策定に関わり、その後も各社が独自に開発するミシンの使用部品にある程度の互換性を持たせることで業界全体の生産能力を高めるアセンブリー生産方式と呼ばれる、工業力に劣る日本の国情に合致した独自の大量生産方式を確立し、米国シンガー社を始めとする米国製ミシンのライン生産方式に対抗した。通商産業省工業技術院(現・産業技術総合研究所)が主導する形で行われた輸出向けミシンの輸出検査[9]といった日本政府の産業振興策、国産ミシン業界全体で「性能審査会」を定期開催するなどの自助努力などにより、パインミシン製造も参画した国産ミシンの品質は米国製ミシンのそれを凌駕するようになり、1960年代末までには名実共に世界一の地位を確立するに至った[10]。
米国シンガー社は自社製品にとって脅威である日本製ミシンの高度な製造品質に着目し、逆に自社ブランドのミシンの製造を日本企業に委託することで自社ブランドの価値を向上させる道を選択、早くも1954年(昭和29年)にはパインミシン製造の株式の半分を取得して、生産能力向上の為の多額の設備投資を行った。米シンガーは当初、パインミシン製造に「シンガー」ブランドではなく、創業者のアイザック・メリット・シンガーに因んだ「メリット」ブランドでの生産を行わせたが、その製造品質の高さから1年程で「シンガー」ブランドでの製造を許諾、1959年(昭和34年)にはパインミシン製造の生産能力は年産70,000台に達し、その内15%程が輸出に回される形となった[11]。宇都宮工場で生産されたシンガーブランドのミシンには、型式番号に宇都宮の頭文字である「U」が冠されており[12]、シリアルナンバーには先頭に「T」が付くことで今日でも比較的容易に判別が行える[13]。パインミシン製造の基礎的な技術力の高さを示すエピソードとして、米シンガーの資本参入後の1956年(昭和31年)、パインミシン製造取締役(後、社長)の盛川誠二が、ニュージャージー州エリザベスのシンガーの工場にて工場内見学と組立工程研修を受けた際の感想として「米シンガーの技術者が"秘伝"と称していた組立工程上の工夫を、自社の技術者は過去十年の国産ミシン製造の過程の中で既に会得済みであったという事実が、非常に力強く感じられた。」という発言が残されている[10]。
パインミシン製造は1971年(昭和46年)6月に日本製鋼所と米国シンガー社が協同出資する形で再編され、シンガー日鋼株式会社と改称した[4]。なお、米国シンガー社自体も第二次世界大戦中はノルデン爆撃照準器やU.S.M1カービン、M1911自動拳銃などを生産する軍需企業であった[14][15]。
1965年(昭和40年)、戦前より銃器製造のノウハウを有していたパインミシン製造は、川口屋林銃砲火薬店(KFC)の依頼によりファブリックナショナルと技術移転契約を締結し、同社のブローニング・オート5をKFC パインオート[16][注釈 1]として国産化、ミロク製作所がKFCの販売網から離脱する1972年(昭和47年)までKFC オートの名称で販売された。同年、シンガー日鋼はパインオートに代わる半自動散弾銃としてベレッタと技術移転契約を締結し、同社のベレッタ A300ガスオート[17][18]をKFC M100ガスオート[19][注釈 2]として国産化、KFCの販売網の元でKFC ガスオートとしてOEM供給を行った。KFC パインオートは米国では釣具用品のダイワ精工(現・グローブライド)の米国代理店[注釈 3][20][21]によってダイワ オート M500の名称で[22][23]、KFC M100ガスオートは日本国内にシンガー日鋼 M201、海外にSinger Nikko A302の名称で販売されたりもしており、メーカーの略称としてはSNCが用いられていた。シンガー製半自動式散弾銃は、国産散弾銃では最も早期に[24]交換式チョーク(銃口の絞り)を採用した銃身を用いていた事で知られている[25]。この交換チョークは「外装式」と呼ばれるタイプのもので、全絞り(フルチョーク)・半絞り(ハーフチョーク)・スキートの3種類が用意された[24]が、これは1953年(昭和28年)にイタリアのブレダが発売した反動利用式オートのブレダ アルテアで採用されたクイックチョークシステム[26]と非常に類似していた。
1980年(昭和55年)、銃刀法の強化に伴い散弾銃の国内出荷数が最盛期(1968年)の7%程度まで縮小し[27]、オリン晃電社やSKB工業などが倒産していく中[28]、更なる衰退が予測される国内銃器市場に一定の見切りを付け始めていたKFC[29]は、北米市場への進出に活路を求めてゆく。KFCの要請を受けたシンガー日鋼は、KFC Eシリーズ元折上下二連散弾銃[30][31]や、独自設計のKFC M250ガスオート[32]をOEM製造し、KFCを通じて国内向け出荷の他、北米市場への輸出も行ったが、KFCは1986年(昭和61年)には北米市場からの撤退[33]を余儀なくされ、昭和末期にシンガー日鋼はKFC共々国内の散弾銃事業からも撤退した。
銃器事業からの全面撤退後のシンガー日鋼は、米国シンガー社向けの家庭・工業用ミシンのOEM製造に注力していたが、1990年代末の世界的な需要低迷や中国製ミシンの台頭により、1998年(平成10年)時点で最盛期の半分にまで業績が落ち込んでいった[34]。米シンガー自体も1960年代以来の多角化経営の失敗が続き、1990年代にはセミテック・マイクロシステムズを率いる香港系カナダ人ビジネスマン、ジェームス・ティンにより買収されるなど、経営環境が次第に悪化している状態であった[34]。そんな折、1997年(平成9年)に米国シンガー社の主要取引先であるドイツのプファフが倒産し、米シンガーも1999年(平成11年)に連鎖倒産する形で連邦倒産法第11章(チャプター11)を申請した[34]。独プファフ、米シンガー共にジェームス・ティンの傘下にあり、両者の倒産の遠因はティンによる不明瞭な会計と無謀な投資の失敗により多額の不良債権を負わされた事であるとされており、フォーブス誌は一連の破綻劇を「ティン帝国の破滅」と評した[35]。
会社清算
1999年、米シンガー社が工業用ミシン事業からの撤退を決めた事で、同年11月にシンガー日鋼は事業継続が困難であると判断して宇都宮工場の閉鎖を発表[34]、2000年1月に宇都宮工場を閉鎖して従業員330名を解雇するなどの規模縮小を行い、事業継承を前提とした国内販売会社の設立を模索した。しかし、米シンガーは日本国内での生産継続を断念し、シンガーミシンのOEM生産元であったハッピー工業(現:ハッピージャパン)他へ商標権を提供するライセンス契約を結ぶことになり、大口取引先のシアーズも蛇の目ミシン工業からの供給に切り換えることとなった為[34]、これらを受け8月末をもってシンガー日鋼は解散手続きに入り、12月末に清算を完了した。
ライセンス契約後、ハッピー工業は自社の販売子会社であったトウキョーハッピーの社名をシンガーハッピージャパンに変更。2021年現在はハッピー工業とシンガーハッピージャパン他の合併により設立されたハッピージャパンがシンガーミシンの国内発売元となっている。
工場跡地
解散後シンガー日鋼があった場所は住宅地およびショッピングセンター(ベルモール)となり、一部は元従業員用の住宅となった[2]。住宅地にある3つの公園のうち最も大きい公園には「パイン公園」の名前がつけられ、歴史を垣間見ることができる[36]。製造設備は三和精密機械などに売却され工業用ミシンの生産に使われている。宇都宮大工学部前の約500本の桜並木は、1952年(昭和27年)にパインミシン製造従業員により植樹されたもので、60年以上を経て陽東地区の観光スポットの一つともなっている[37]。2018年(平成30年)には、宇都宮市によって桜並木に「陽東さくら通り」の道路愛称がつけられた[38]。
脚注・注釈
脚注
- ^ 宇都宮の戦争 - 宇都宮発見Home Page
- ^ a b 陽東エリア 歴史 - みやぷら トチペ[リンク切れ]
- ^ (株)日本製鋼所『日本製鋼所百年史 : 鋼と機械とともに』(2008.03) - 渋沢社史データベース
- ^ a b (株)日本製鋼所『日本製鋼所社史資料. 続巻』(1978.11) - 渋沢社史データベース
- ^ ANTIQUE SEWING MACHINE #92 PINE パイン製家庭用足踏みミシン 1949-52年頃 - ミシン一番店
- ^ パイン裁縫機械製作所 - コトバンク
- ^ ジャノメミシンの歴史 - 蛇の目ミシン工業
- ^ 家庭用HA-1型ミシン - 着ぐるみが暮らす世界
- ^ 輸出検査(ゆしゅつけんさ) - コトバンク
- ^ a b 竹内淳一郎, 「日本ミシンの品質向上と輸出検査」『産業学会研究年報』 2003巻 18号 2003年 p.65-76,128, doi:10.11444/sisj1986.2003.65
- ^ Singer Sewing Machine Factory Utsunomiya Japan - Singer Sewing Machine Information Site Including Featherweight models
- ^ SINGER 191U 足踏みミシンのいいのが手に入った。 - ブログを体験してみる
- ^ いつのもの?どこのもの? - シンガーミシン
- ^ Sanders, Richard Robert S. Clark (1877-1956), Press for Conversion! magazine, Issue # 53, "Facing the Corporate Roots of American Fascism," March 2004. Published by the Coalition to Oppose the Arms Trade.
- ^ Singer Manufacturing Co. 1941 1911A1, From the Karl Karash collection/Images Copyright Karl Karash 2002
- ^ Lot 2283: NRS Mfg - Dynamic Auto - rockislandauction.com
- ^ ベレッタ ガスオートについて - 三進小銃器製作所
- ^ 今年から狩猟を始める方へ自動銃という選択?! - 都銃砲店
- ^ Lot 341: Beretta Pietro - Al 2 - rockislandauction.com
- ^ Whom Else Owns a Daiwa Shotgun? - RimfireCentral.com
- ^ DAIWA AUTO 500 12 GA 28 INCH MODIFIED VENT RIB for sale - GunsAmerica
- ^ DAIWA - Blue Book of Gun Values
- ^ Daiwa A500 12 gauge semi-auto shotgun - ARMLIST
- ^ a b 川口屋林銃砲火薬店『K.F.C. Shotguns&Cartridges '70』1970年。
- ^ Little help with an ID, Please - Shotgunworld.com
- ^ Gun Collecting: The Unique Breda Shotgun - ザ・デイリー・カラー
- ^ 「銃・装弾」の生産・出荷統計とグラフ - Retire 「幹さん」のH/P
- ^ 鉄砲・火薬の歴史(2) - Retire 「幹さん」のH/P
- ^ 「幹さん」のあゆみ - Retire 「幹さん」のH/P
- ^ NIKKO E-1 Trap or Skeet Double Barrel Shotgun 12gal. (Custom made in Japan) - ARMSLIST
- ^ KFC O/U shotgun - ARMSLIST
- ^ KFC Model M250 Semi-Automatic Shotgun - Proxibid
- ^ ダン・シデラー『The Gun Digest Book of Guns & Prices 2011』ガン・ダイジェスト、2011年、511-512頁。
- ^ a b c d e シンガー(The Singer Company) - コトバンク
- ^ The Wrecking of Singer - フォーブス
- ^ 栃木公園情報館~トチパ~ (2021年3月9日). “【栃木公園紹介】宇都宮市 陽東桜が丘パイン公園”. 栃木公園情報館~トチパ~. 2023年11月12日閲覧。
- ^ 宇都宮市内 桜の名所宇都宮市
- ^ 道路愛護事業宇都宮市
注釈
シンガー日鋼(昭和40年 - 昭和末)
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「K.F.C. (散弾銃)」の記事における「シンガー日鋼(昭和40年 - 昭和末)」の解説
昭和47年(1972年)、ミロクは日本油脂と合同で独自の販売会社であるニッサンミロク株式会社を設立し、K.F.C.との提携関係は遂に破談に至った。海外展開もブローニング・アームズとミロク-ブローニングとも呼ばれる強固な協業関係を新たに構築、事実上同社が設計した銃器のほとんどをOEM供給する体制となり、同社の販売網の下で全世界に向けた展開を行うこととなった。 以後、ミロク製作所が製造する元折二連散弾銃の多くは国内でも「B.C. Miroku」ブランドで販売される事となり、K.F.C.は主力商品であったK.F.C.・Oシリーズ上下二連のみならず、水平二連の殆どと元折単身銃のラインナップが一挙に失われる事態となった。水平二連は辛うじてK.F.C.・MKシリーズが引き続きミロクより供給されたが、K.F.C.は同年以降装弾事業を除いては事実上シンガー日鋼のみが銃器事業の頼みの綱となった。 K.F.C.は同年中にイタリアのピエトロ・ベレッタとアンダーライセンス契約を結び、同社のガス圧作動方式半自動散弾銃であるベレッタA300ガスオートをシンガー日鋼を通じて国産化し、K.F.C. M100ガスオート(単にK.F.C.ガスオートとも)として販売を開始した。K.F.C.ガスオートは高い信頼性で世界的な評価を得ていたベレッタA300に、K.F.C.オート以来の外装式交換チョークを組み合わせるというユニークな構成でそこそこの販売実績を収めたが、機関部(英語版)左側面には「UNDER LICENCE OF BERETTA」と大書しなければならないという、ある種珍妙な状況を強いられる事にもなった。なお、本家A300シリーズが内装式交換チョークを採用するのは1980年登場のベレッタA302以降であり、K.F.C.ガスオートは交換チョークが利用可能なA300として日本市場で一定のシェアを獲得する事に成功した。 しかし、K.F.C.やシンガー日鋼の技術陣はベレッタA300のライセンス生産は飽くまでも次期モデルの登場までの繋ぎと考えていたようで、日本国内全体の散弾銃の販売実績が急速に下降していく事になる昭和50年(1975年)以降、独自設計のガスオートの技術開発を積極的に進めていく事になる。昭和51年(1976年)、K.F.C.は当時の社長である林久男(はやし-ひさお)の指揮の下、管状弾倉の内側にガスピストンを配置する(インナーピストン方式)ベレッタA300の構造を基礎として、銃身と管状弾倉の間に小型のガスピストンを配置し、ショートストロークピストン方式とした新型のガスオートの基本概念、レミントンM1100などガス圧作動方式の半自動散弾銃で一般的に用いられているロッキングブロック(英語版)方式の作動機構(英語版)に、M1ガーランドなどの軍用制式小銃(英語版)で用いられるロータリーボルト(英語版)方式の要素を加える事で遊低レバー(英語版)の抜け止め機能を実装した新型の遊底、一般的な半自動式散弾銃と同じ機能性を持ちながら部品点数を減少させた新型の送弾機構や引金機構などの日本及び米国特許や実用新案を取得し、これらの特許を元にした新型ガスオートであるK.F.C. M250 ニュー・オートローダーを完成させ、昭和52年(1977年)より欧州向け及び日本国内向けに出荷を開始した。 管状弾倉を持つガスオートのガスピストンの構造は大きく分けて2つあり、管状弾倉の外側にドーナツ型のガスピストンを持つもの(レミントンM1100、SKB M1900ガスオート、ウィンチェスターM1400、ウィンチェスター・スーパーX・M1など)と、管状弾倉の先端に円筒形のガスピストンを持つもの(フジ スーパーオート、ブローニング・B-2000、ウェザビー・センチュリオン、ベレッタA300、ブローニング・ゴールドなど)に大別されるが、前者は散弾実包の種類毎に異なる装薬量に合わせてガス圧を自動調整する機構を組み込む事が難しく、後者はガス圧の自動調整機構の実装が比較的容易な反面管状弾倉の延長が難しいという欠点がそれぞれ存在している。また、どちらの構造もガス圧が作用するピストンとガス圧により前後する遊底の配置が直列ではないため、複雑な形状の連結桿を用いなければならず、経年劣化による金属疲労の蓄積や極端な強装弾の使用などにより過度の負荷が掛かるなどの要因で連結桿の強度が弱い部分が折損しやすい欠点が存在している。強度や耐久性を重視して連結桿を強固にすると、重量が嵩む事になり遊底全体の慣性質量が増加して射撃の反動が大きくなる要因ともなる。K.F.C.ニュー・オートローダーはこのどちらの構造とも異なり、銃身と管状弾倉の間に小型のガスピストンを配置する事で遊底とガスピストンの配置が直列になると共に、連結桿(ピストン桿)も細長い棒状のものを用いてショートストロークピストン式とする事で耐久性の向上と軽量化による反動の低減が指向されている。このような構造は軍用制式小銃では豊和工業の64式7.62mm小銃やソビエト連邦のSKSカービンと類似しており、半自動式散弾銃ではベレッタA300の前身であるベレッタM60/61がほぼ同じ構造を採用していた。M1ガーランドのピストン桿の構造をほぼ踏襲したベレッタM60/61では、装弾重量34グラム以下の散弾実包では回転不良を起こしやすい欠点が存在していたが、K.F.C.ニュー・オートローダーは軍用銃やベレッタM60と異なり、ピストン桿を二分割の伸縮構造としていた。このピストン桿はK.F.C.では「ホリゾンタル・ストローク・アクション・バー」と称されており、伸縮部分の継ぎ目には多数のワッシャーが配置され、射撃時にはピストン悍の伸縮に応じてこのワッシャーが衝突球のように作用して伸縮に伴う衝撃を増減させる事で、ガス圧の多寡に関わらず軽装弾から重装弾まで支障なく回転する構造を実現していた。ガスピストンが玉突き式にガス圧を遊底に伝達する構造は軍用銃ではM1カービンがタペットピストン式として実用化しており、K.F.C.はこの概念を応用したものとみられている。 なお、このような構造は2010年代現在ではベネリ・アルミ・SpA(英語版)のベネリ M4 スーペル90がほぼ同じ構造をベネリ・ARGOシステムとして採用している。 昭和55年(1980年)、銃刀法の強化に伴い散弾銃の国内出荷数が最盛期(1968年)の7%程度まで縮小するという壊滅的な需要縮小が発生し、翌昭和56年(1981年)には競合他社であるオリン晃電社やSKB工業なども次々に倒産していった。K.F.C.の元社員である松倉幹男によると、K.F.C.自体は昭和55年を最後に更なる衰退が予測される銃器事業そのものに既に見切りを付け始めており、銃器・装弾以外の事業に活路を見出す事を模索する状況であったという。 しかし、K.F.C.とシンガー日鋼の銃器部門は海外市場への進出に一縷の望みを託し、同年に戦前以来となる北米市場への輸出を開始する。K.F.C.の要請を受けたシンガー日鋼は、M250ニュー・オートローダーと共にK.F.C.・Eシリーズ及びK.F.C.・FGシリーズ元折上下二連散弾銃をOEM製造し、K.F.C.を通じて国内向け出荷の他、北米市場への輸出も行ったが、K.F.C.は昭和61年(1986年)には北米市場からの撤退を余儀なくされ、昭和末期にK.F.C.はシンガー日鋼と共に国内の散弾銃事業からも全面撤退した。 銃器事業末期には従来より採用していた外装式交換チョークの構造に、他社の内装式交換チョークの要素を折衷して内装式の欠点の克服を図った新型の交換チョーク機構や、将来的な装填数増加を認める法令改正を見込んだ可変式の装填数制限構造なども開発されたが、銃器事業の縮退が余りにも急激であった事から、それらが生かされる事はなかった。
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シンガー日鋼(SNC)
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「K.F.C. (散弾銃)」の記事における「シンガー日鋼(SNC)」の解説
K.F.C. オート - K.F.C.自動五連銃、K.F.C.パインオートとも。国産初の交換チョーク仕様である事を最大の特色としていたが、1966年時点では重量3.7kgと、本家ブローニング・オート5の戦前モデルに相当する重量があった。この銃のみ「八角形にK.F.C.」という特別なロゴが打刻されていた。口径は12番のみ。外装式交換チョークの換装で銃身長が4段階に変化するため、「1本の銃身で全ての用途を賄える」として替銃身は用意されていなかった。K.F.C. オート・タイプⅡ - 1970年頃ラインナップされていたK.F.C.オートの改良型。重量は約3.45kgとなり、オート5の戦後モデルであるオート5・ライトウェイトに相当する仕様となった。口径は12番のみ。 K.F.C. オートライト - 1970年頃ラインナップされていたK.F.C.オートの軽量型。重量は3.15kgまで軽量化され、オート5における軽合金機関部モデルであるオート5・スーパーライトウェイトに相当する仕様となった。オートライトは表面仕上げが異なる2種が存在しており、機関部側面が白磨きのものがオートライトI、黒染めのものがオートライトIIと分類されていた。 なお、K.F.C.オートはカタログにラインナップされていた普及価格帯の製品以外にも、本家ブローニング・オート5におけるグレード6(通称金ブロ)やグレード5・グレード4(通称シルバーグレイ)に相当する極めて高級なモデルの注文生産も受託していたものとみられ、海外を中心に僅かな数の現存品が残されている。K.F.C.オートの金象嵌、シルバーグレイ共に現存品の製造番号は10000台であり、販売開始後ごく初期の段階にしか存在しなかったとみられる。K.F.C.オートは国内では1972年よりベレッタA300ベースのK.F.C.ガスオートに置き換えられるが、欧州向け輸出は1976年頃まで継続されていたともいわれる。シンガー日鋼はオート5のライセンス生産にあたり、オート5の構造上の弱点であった「銃身後退の衝撃で先台が割れる」事象を軽減するため、先台の内部に衝撃吸収材を配置するなど独自の改良も行っていたという。
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