膳所藩 膳所藩の概要

膳所藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/17 15:39 UTC 版)

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江戸時代初期には短期間で藩主家が交替したが、そのうちの本多家[注釈 1]が1651年に再封され、以後廃藩置県まで藩主を務めた。京都への入口を押さえる役割を担い[2]、歴代藩主家はいずれも譜代大名である。本多氏(再封)時代の石高は7万石で、これは近江国では彦根藩(井伊家)に次ぐ規模である。

概要

初期の藩主家

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、徳川家康大津城[注釈 2]に代わる城として、相模川河口付近の膳所崎に天下普請で膳所城を築城し、武蔵国高麗郡鯨井5,000石の領主であった譜代戸田一西に3万石を与えて入部させた。これが膳所藩の立藩である。一西は藩政安定化のために漁民を保護し、しじみを特産品とした。慶長7年(1602年)に一西が死去すると、子の戸田氏鉄が後を継いだが、元和2年(1616年)に大坂の陣における武功を賞されて摂津国尼崎藩に移された。

代わって譜代の名家本多家本多康俊が3万石で入った。本多康俊の後を継いだ本多俊次の代である元和7年(1621年)、5,000石加増の上で三河国西尾藩に移された。

代わって伊勢国長島藩より菅沼定芳が3万1,000石で入った。しかし寛永11年(1634年)に1万石加増の上で定芳は丹波亀山藩へ移され、代わって石川忠総大久保忠隣の次男)が下総国佐倉藩より7万石で入部した。忠総の後を継いだ孫の憲之のとき、叔父の石川総長に1万石、同じく叔父の石川貞当に7,000石を分与している。慶安4年(1651年)4月4日、憲之は伊勢亀山藩に移された。

本多家の再入部

霊巌寺(東京都江東区)にある膳所藩主・本多家墓

代わって、以前に膳所を領していた本多俊次が7万石で膳所に再び入部し、ここに藩主家が本多家として安定することとなった。そして初代藩主の俊次から第3代藩主・本多康慶の頃にかけて瀬田川の治水工事、新田開発、窮民に対する福祉政策や火事対策、京都警備などの諸改革が行なわれて藩政は安定化した。しかし江戸時代中期頃から藩財政が窮乏化したため、第9代藩主・本多康匡は中根善右衛門を登用して財政改革を主とした藩政改革を断行したが、この改革が領民に御用銀を賦課するというものであったため、天明元年(1781年)に改革に反対する百姓一揆や打ちこわし、強訴が起こり、同年末にも打ちこわしが発生。おまけに藩主の康匡が年末に死去したため、改革は完全な失敗に終わったのである。

そして、第10代藩主・本多康完の時代には有名な「御為筋一件」が起こった。前述したが膳所藩では江戸時代中期頃から財政が窮乏化して衰退していたが、それを助長するように二人の奸臣が現われた。家老の本多内匠と鈴木時敬がそれであるが、二人は藩主が短命かつ若年であることをいいことに領民に対して悪政を敷いて専横を極めた。康匡は二人を排除して実権を取り戻し、中根を登用して改革を行なったが、領民に負担をかける財政改革だったため、領民が百姓一揆を起こして失敗したうえ、その一揆が起こった同年末には康匡が死去して若年の康完が後を継いだ。すると失脚していた本多内匠と鈴木時敬は康完が若年であるのをいいことに復職を果たしてまたも専横を極めた。しかも藩財政が窮乏化している中で、奢侈を奨励したから領民は勿論、家臣団の内部でも内匠と時敬の排除を求める声が高まった。幕府にもこの騒動が聞こえるようになると、幕府の裁定により本多修理(内匠と時敬の対立者で、倹約を主とした藩政改革を唱えていた)を家老として藩政改革を行なうように命じ、二人の奸臣をはじめとする一派は処刑、永牢、追放の処分を下された。こうして、騒動はようやく鎮まり、その後は修理のもとで藩政改革が行なわれ、文化5年(1808年)には藩校・遵義堂が創設された。

幕末期、最後の藩主である本多康穣の代に藩内では尊王攘夷派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争った。将軍・徳川家茂の膳所宿泊予定が中止になるほどであったが、藩内部でやがて佐幕派が力を盛り返し、阿閉権之丞尊王派11名を処刑した[注釈 3]。また尊王派の先鋒の川瀬太宰も幕吏新撰組に捕えられ殺される。川瀬太宰は筆頭家老戸田資慶の叔父でもあった。その後その川瀬太宰が藩主にも説いた尊王論が盛り返し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して桑名藩攻めに出兵した。

翌年の版籍奉還により、康穣は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で膳所藩は廃藩となって膳所県大津県を経て、滋賀県に編入されたのである。

膳所藩は1865年4月、全国に先駆けて「廃城願い」を出した。膳所城は湖に突き出た水城で、維持費が嵩むうえ、近代戦に不向きなため一説には天守閣から石垣に至るまでを1200両で売りに出されたとも言う。 廃城に至り伊藤久斉という藩士はショックのあまり発狂し物乞いになったが町民の尊敬を受けていて、1921年に亡くなった際には町民による町民葬が行われた。

歴代藩主

戸田家

3万石。譜代

  1. 戸田一西
  2. 戸田氏鉄

本多家

3万石。譜代。

  1. 本多康俊
  2. 本多俊次

菅沼家

3万1,000石。譜代。

  1. 菅沼定芳

石川家

7万石→5万3,000石。譜代。

  1. 石川忠総
  2. 石川憲之

本多家

7万石。譜代。

  1. 本多俊次
  2. 本多康将
  3. 本多康慶
  4. 本多康命
  5. 本多康敏
  6. 本多康桓
  7. 本多康政
  8. 本多康伴
  9. 本多康匡
  10. 本多康完
  11. 本多康禎
  12. 本多康融
  13. 本多康穣



注釈

  1. ^ 膳所藩主となった本多氏は、戦国時代に三河国宝飯郡伊奈城の城主だった家(伊奈本多家、彦八郎家)で、膳所藩初代藩主となった本多康俊の名から康俊系本多家とも呼ばれる。康俊は伊奈本多家に養子に入った人物で、実父は酒井忠次(左衛門尉酒井家)であり、母方で松平清康徳川家康の祖父)の血を引く。
  2. ^ 大津付近は幕府直轄地となり、大津奉行や大津代官が置かれた。
  3. ^ 徳川家茂の暗殺の計画があったとされる(膳所城事件)。処刑された尊王攘夷派の11名は、明治維新後に膳所藩十一烈士として顕彰され、安昌寺に祀られている。
  4. ^ 良政の甥にあたる今枝良臺が開いた理方一流など
  5. ^ Corbicula sandai
  6. ^ 「膳所焼」の語は、御庭焼に先立つ古窯や、江戸時代後期以後に膳所焼の再興を試みたさまざまな窯も含めた総称として用いられることもある。現代において滋賀県伝統的工芸品に指定されている膳所焼は、1919年に岩崎健三による再興の成果である。

出典

  1. ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(396ページ)
  2. ^ a b c d 村山勤治「滋賀県諸藩における武芸教育に関する研究(その1) 膳所藩の武芸教育について」、『滋賀県スポーツ科学委員会紀要』第6巻、1985年、2018年3月3日閲覧。
  3. ^ a b 瀬田川の紅蜆”. 瀬田川てくてくマップ. 国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所. 2018年8月31日閲覧。
  4. ^ しじみ (pdf)”. FOOD紀 わが町の「地産地消」をたずねて. 平和堂. 2018年8月31日閲覧。
  5. ^ セタシジミ”. 滋賀県. 2018年8月31日閲覧。
  6. ^ 公益財団法人 膳所焼美術館”. 滋賀県博物館協議会. 2018年3月3日閲覧。


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