初期の藩主家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:05 UTC 版)
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、徳川家康は大津城に代わる城として、相模川河口付近の膳所崎に天下普請で膳所城を築城し、武蔵国高麗郡鯨井5,000石の領主であった譜代の戸田一西に3万石を与えて入部させた。これが膳所藩の立藩である。一西は藩政安定化のために漁民を保護し、しじみを特産品とした。慶長7年(1602年)に一西が死去すると、子の戸田氏鉄が跡を継いだが、元和2年(1616年)に大坂の陣における武功を賞されて摂津尼崎藩に移された。 代わって譜代の名家本多家の本多康俊が3万石で入った。本多康俊の跡を継いだ本多俊次の代である元和7年(1621年)、5,000石加増の上で三河西尾藩に移された。 代わって伊勢長島藩より菅沼定芳が3万1,000石で入った。しかし寛永11年(1634年)に1万石加増の上で定芳は丹波亀山藩へ移され、代わって石川忠総(大久保忠隣の次男)が下総佐倉藩より7万石で入部した。忠総の跡を継いだ孫の憲之のとき、叔父の石川総長に1万石、同じく叔父の石川貞当に7,000石を分与している。慶安4年(1651年)4月4日、憲之は伊勢亀山藩に移された。
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