初期の苦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/31 14:15 UTC 版)
この新聞は八折り判のサイズで印刷されていた。通常は8ページの分量であるが、時には12ページまたは16ページに拡大された。通常、マラーは人民の友を毎日発行していたが、逮捕を逃れるためにマラーが潜伏した事によって新聞の印刷を行えなかったことが数回あったため、その発行期間にはいくつかの空白がある。ジャック・ネッケル、ジャン=シルヴァン・バイイ、ミラボー伯爵、パリの自治市会、ラファイエット侯爵、国民議会、立法議会、国民公会、亡命貴族、ルイ16世といった人々に対する彼の絶え間ない攻撃は、彼に対する市民権の剥奪と告発、さらにこの新聞の発行停止を求める動きを招いた。彼の印刷機は破壊され、印刷済みの人民の友は少なくとも2回押収された。特に物議を醸した号- その中で彼はラファイエットの心臓をえぐり出し、国王を火あぶりにし、議員たちをその議席に串刺しにせよという脅迫的な言辞を用いていた - を印刷した印刷業者は逮捕、投獄され、その印刷に使用された原版は破壊された。 新聞発行のための独立した収入源を持たなかったマラーは、人民の友を発行するために自らの貯蓄の大部分を費やした。1792年の初め、2ヶ月間滞在していたイギリスから帰国した後、彼には新聞の発行を続ける経済的余裕がなかったが、新しく内縁の妻となったシモーヌ・エヴラールの財政的支援によって彼は発行を続けることができた。1792年8月10日に王権が停止した後、パリ自治市会の警察監視委員会はマラーに国王の印刷機4台を与え、マラーのための新たな印刷所がコルドリエ修道院(英語版)の地下に設けられた。
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