初期の航海(1611年-1612年)
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「アドリアン・ブロック」の記事における「初期の航海(1611年-1612年)」の解説
1609年にハドソンがハドソン川流域でインディアンと接触したことに続いて、アムステルダムのオランダ人商人が当時ヨーロッパで魅力的な市場になっていたビーバーの生皮を交易できる可能性があるものとしてこの地域を探検する価値を判断した。 翌1610年、シメン・ランベルツ・マウ船長のモニケンダムの商船がハドソン川で沈没し、翌1611年、ルーテル派商人集団の注文でブロックと仲間の船長ヘンドリック・クリスチャンセンがハドソンの探検した地域を再訪し、毛皮と共にインディアン酋長の息子2人を連れて戻った。毛皮交易がうまくいく可能性が生まれたので、ネーデルラント連邦共和国の政体であるスターテン・ヘネラール(オランダ議会)が、1614年3月27日に、新しい国、港および経路を発見した者に、3年以内に4回の航海を行い、帰国後14日以内に詳細報告書を提出すれば排他的特許を与えるという声明を発布することになった。
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初期の航海
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1494年、当時の世界の海洋強国ポルトガルとスペインがトルデシリャス条約に調印して、大西洋の真ん中で地球を東西に分ける線を引き、それより東の交易ルートはポルトガルに割り当てられた。その結果、当時唯一知られていた東洋への航路である喜望峰回りでインド洋に至るルートはポルトガルが支配し、スペイン、さらに後には他の国は西回りで太平洋に出るルートを探すことになった。このようなルートの探索の一部として南への探検が始まった。 北極とは異なり、大航海時代以前に南極あるいは周辺の島に人が訪れたあるいは住んだという証拠は無い。しかし、南アメリカの最南部には既にセルクナム族(オナ族)、ヤーガン族(ヤマナ族)、アラカルフ族、ハウシュ族などの人々が住んでいた。特にハウシュ族はティエラ・デル・フエゴの本島から29 km 離れたエスタドス島に定期的に通っており、このことは彼らの中にはホーン岬に近い諸島にたどり着くことができた者がいる可能性を示唆している。またフエゴ島人の人工物やカヌーの名残がフォークランド諸島で発見されており、さらに長い航海を行った可能性があると見られる。 ティエラ・デル・フエゴの先住民が実際に海洋を渡る旅が出来なかったとしても、ポリネシア人はそれができた。ポリネシア人がニュージーランドの南にある亜南極の島の幾つかを訪れた証拠がある。ただし、そこは南アメリカの南端よりも南極から遠い。制作時代も場所も不明な土器の欠片が1886年にアンティポデス諸島で見つかっており、オークランド諸島のエンダービー島では13世紀に遡ることのできるポリネシア人入植地の名残がある。マオリ族の伝説では650年頃にウイ・テ・ランギオラがワカ・トワイの艦隊を率いて南に向かい、「岩のような構造が海から立ち上がる酷く寒い場所」に達したとされている。この簡潔な記述はロス棚氷やことによると南極大陸本土とも整合しているように思えるが、単に南極海で見られる氷山や叢氷だった可能性もある。
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